安倍晋三の「我が闘争」

今政府の国民への財政出動の動きも金額もしょぼいのは、お金を渡したくないからということもあるが、平時に無駄遣いをしすぎて資源がないから、である。平時の政府の悪辣・放縦を見逃していると非常時に被害を被るのはいつも国民だ。

「非常時なんだからいくらでも札を刷ればいいじゃないか」という議論は、日銀が政府から独立している意味と、財政ファイナンスは法律で禁止されている意味を知らない、あるいは見て見ぬふりをしているところから生じるように思う。

MMTがどんな理論なのか何度説明を聞いてもよくわからないが、根本的に、日本人が国内でどんなに円を後生大事に思っていても、海外の投資家がこぞって「一万円札はただの紙切れだ」と思った瞬間にそれは本当の紙切れになる恐ろしさを度外視していることは多分間違いない。「海外の投資家」はそんなにお人好しぞろいなのだろうか。

日銀政策委員会や最高裁が安倍政権の息がかかった人間ばかりになり、さらに検察トップや警察トップも同様になりかかっている今にいたって大騒ぎしても手後れ感はいなめない。冷笑家にヤニ下がる気はないが、この辺りの抜かりのなさは、巷間揶揄されているような「無能」どころの騒ぎではない。安倍晋三は行政家としてはともかく、政局を読む、あるいは権力掌握のツボをおさえるにあたっては、きわめて「有能」であり、それだけに危険な人物なのだ。

安倍氏を動かしているのは二種類のごく私的な、内面に抱えた憎悪だと思う。一つは第一次安倍政権での「政権投げ出し」を徹底非難した国民・野党・および党内勢力への憎悪であり、二つ目は左翼への憎悪である。安倍氏の政治行動はこの憎悪を吐き出すことが「目的」であり、政策はその「手段」である。

政治権力を担保するのは数の力(支持する国会議員の数や、政権支持率)で、「アベノミクス」はそれを拡大するための有効な手段だった。第二次安倍政権発足時、企業はいわゆる「六重苦」といわれる経営環境にあえいでいて、その中で最も深刻だったのが、円高による輸出不振と高い法人税の二つだった。

法人税の減税は国会で法律を変えればできるが、円高の解消は日銀の協力が必要なので、日銀の独立性と財政規律を重んじる白川氏から両方をまるで重んじない黒田氏に首をすげ替えた。いわば、「白河の清き」から「濁りの田沼」にドジョウの棲みかを変えたのである。

白河(当時老中だった白河藩松平定信 )の清きに魚もすみかねてもとの濁りの田沼(前老中田沼意次)恋しき

今にして思えば、この白から黒への日銀トップのすげ替えが、以後頻発することになる、安倍政権が独立系組織の人事に過剰な口出しをする嚆矢(?)だった。

安倍政権の指向する金融緩和政策は、質的には円高是正とそれによる輸出およびインバウンド振興、量的には国内のデフレ解消による内需振興に効果があることを想定していた。前者は円の金利が低くなることで海外投資家が円売りになびくことによってわりと単純に達成されたが、後者は完全に失敗した。

ここは私見だが、アベノミクス量的緩和によるデフレ脱却が失敗したのは、「貨幣数量説(通貨の流通量を増やせば物価は上がる→デフレから脱却できる)」が時代遅れだったというよりも、「お金の配り方」に問題があったのではあるまいか。

つまり、市中への貨幣への供給がつねに銀行を通して行われたため、銀行は構造的にも生理的にも、信用力のある企業や個人にしかお金を供給しないから、富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなり、中間層はどちらかに分離するという、いわゆる「二極化」の後押しにしかならなかった。

銀行の貸し出し機能を介さず市中への貨幣供給をする方法としては、一時「ヘリコプターマネー(上空から札びらをバラまく )」理論が注目された。これは個人の銀行口座に国から直接お金(不労所得)を振り込む方法で、現コロナ況下で実行されている諸々の給付金に、性格やしくみが類似しているものだ。

自分はヘリコプターマネー理論に反対だった。こんな乱暴な話があるかと思ったのだが、今にして省みれば、金融緩和の恩恵が国民の隅々まで行き渡るし、貯金する余裕がない層はすぐ消費に回すだろうから、内需の喚起にもつながりやすい良いアイデアだったのだ。しかし当時は奇手にしか思えなかった。

安倍政権が「ヘリコプター」を検討したのかどうかは知らないが、日本全国津々浦々に「恩恵」を及ぼす政策を、自分の憎悪の腹いせを終局の政治目的にしている権力者が、その権力基盤を支えてくれる「お友だち」を越えて、敵味方問わず幅広く利益供与するような行動を採ることは、とうてい考えにくい。

小林秀雄は「ナチスには指導理論などない。あるのは燃え上がるような憎悪だけだ」と「我が闘争」の読後感で述べたが、安倍氏の政治行動もたいていは「憎悪」から読み解けるように思う。まさか日本の総理大臣にそんな人が着くなんて、と思う向きが多いだろうが、そのまさかが起き、続いているのである。