コロナ洪水

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ノアの方舟


 コロナで全世界の9割の人間が感染か経済的理由で死滅し、1割の富裕層や権力者がノアの方舟的な生き残り方をするが、手元に残ったのがお札の紙切れだけでものの役にもたたず、その層も時間差で溶けてなくなる、というのが最悪最低のシナリオで、そこからどれだけマシな方へ挽回できるかの戦いになる。

太平洋戦争の戦況が苛烈になったきた時、米内光政は「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならないように気をつけねば」といったが、アベノミクスの腰骨を折って経済がジリ貧にならようにと「春節」での中国人流入を抑えなかったことが、おそらく避けられない日本のドカ貧に直結してくるのだろう。

さらに日本にとってさらに痛手だったのが、五輪ペンディングの決断ができず、感染症対策に遅れが生じたことと、さらに言えば「遅れた」とか「後手だった」のならまだしも、国としては「自粛の要請」と不良品のマスク二枚を配布し始めている以外、いまだに「なにもしていない」ことである。

この恐るべき「なにもしない政府」に業を煮やして、地方自治体や民間企業が動き出しているが、この双方が担う戦いには、限られた予算という制約が常につきまとい、その経済的備蓄が尽きればとたんに作戦終了せざるを得ない。

第一次世界対戦以前の戦争は、武器弾薬や食料の兵站が尽きればそこで負け決定だったが、以後の総力戦においては、戦争中も絶え間なく軍需物資や食料を生産し続けることが必要になり、その持続力の有無によって勝敗が決するようになった。いわゆる「国力」が問われるようになったのである。

地方自治体や民間企業の体力に頼る戦いは、ストックに頼ったいわば「ナポレオン時代の戦争」であり、いずれ限界がくる。コロナとの長期戦を戦い抜くには、なんとしても国がフローを産み出す仕組みをつくり、継続しなければならない。

国がボンクラぞろいでこれ以後もなにもする気も能力がないのならば、せめて地方自治体や民間企業に戦うための交付金を配分するとともに、対策を講じ実行する権限を委譲するべきだ。そうすれば自治体や企業は競うように対応に熱が入るだろう。

しかし、今の政府にはそれをする「度量」がない。自分の無能・無策を認める潔さがない。なぜないのか、つまるところ彼らは本音のところでは自分達が偉そうにできれば、国民がどうなろうと知ったことではないと考えているからだ。驚くべき卑しさである。政治家以前に人間として堕落している。