稀代の国賊集団になる前に

 もとより左翼や良識的な保守層から否定されている上に、煮え切らない「談話」よって軍事オタクや低レベルの保守の反発も買う結果になり、安倍政権の支持者は、もはやネトウヨか、アベノミクスの恩恵を受けている層だけになった。

ネトウヨにはつける薬がないから論ずるに及ばないが、「アベノミクスによって恩恵を受けている層」とは要するに「円安の恩恵を受けている層」、つまり輸出やインバウンド消費でウハウハになっている人々であり、このボリュームは現状かなり厚い。

アベノミクスによって恩恵を受けている層」が恩恵を受け続けているかぎり、おそらく政権は倒れない。ようするに安倍政権は、「経済を人質にとって軍事で好き放題している」ということになる。巧みといえば巧みなやり口だ。

そもそも安倍氏の政治的宿願とは「憲法九条廃止による日本の軍事的プレゼンス強化」にあったのだから、当初の「経済最優先」の旗印は、その目的を糊塗、あるいはそこに達するための手段に過ぎなかったのである。

昨年末の衆議院選挙を安倍氏は「アベノミクスの信任を問う選挙だ」と位置づけた。これを多くの国民が真に受けた結果自民党は大勝したのだが、その後「昨年の選挙で安保関連法案の信任は受けた」と、いけしゃあしゃあと話のすり替えを始めるようになった。

「ええっ!話が違うじゃん」と国民は思ったが、安倍内閣が九条の「解釈の変更」を発表したのは昨年の7月だから、国民の迂闊にも責めはある。こういう手口も、上手いといえば上手い。

「自国の通貨安」というものは、国の「売る力」は強化するが、「買う」力は弱体化させる。

あらゆるビジネスは「モノを買ってそれに付加価値(加工・組立て・距離移動・利便性向上等)をつけて売る」という一連のプロセスで成り立つものだから「売る力」の恣意的な強化は「買う力」の弱体化と表裏一体であり最終的には「売る力」の衰微として現出する。効き目のある薬ほど副作用があるものだ。

これからアベノミクスの副作用がどういう形で現出するか、今、新聞や経済誌ではさまざまなシミュレーションがなされているが、いずれにせよ「タダでは済まないだろう」という推論ではほぼ一致している。

「当初華々しい成果を挙げ国民の拍手喝采を浴びて鼻高々だったが、徐々にジリ貧になって最後にドカ貧で終わる」といえば、真珠湾攻撃インドシナ侵攻から始まって、日本国中焼け野原で終わった先の戦争の成り行きを思わせる。

また、高度経済成長のお祭り騒ぎの終焉としてのバブル破裂と崩壊後の日本の「経済敗戦」状態は依然続いており、アベノミクスの「成功」は、ろうそくが消える前のつかの間の輝きだった、と後世では位置づけられるかもしれない。

金融緩和などしょせんは小手先細工であり、いっときのまやかしにすぎない。もっとも本質的で重要なのは、アベノミクスでいう「第三の矢」に当たる成長戦略、つまりモノに「付加価値をつける力」の向上だ。

成長、つまり「モノに付加価値をつける力」の向上は、金融緩和のような副作用なしに、「買う力」と「売る力」の両方を高める働きを持つ、国力を高めるもっとも本質的な方法だ。

その前に、「落日の国日本で、いまさらしゃかりきになって国力を高める努力をすることがそもそも意味なくね?」という議論がある。これは国内の旧い左翼的ナチュラリズムの流れを汲む知的階層が共有している国家観・歴史観で、自分も一定の共感を持つ。

「成長」の根源的な意味を問うのは、とても深いテーマで、考え出すとキリがなくなるが、オチだけいうと、今の自分は、こういった国家レベルでの遁世思想のようなものは、人生観や社会哲学としては魅力的だが、現実的ではないし副作用も多いと考えている。

もう日本は、人口の8割が農民で、経済サイクルがすべて国内で完結していた江戸時代には戻りたくて戻れない。原材料を買い入れ、付加価値をつけて売り、そこで得た利益でまた買う、というサイクルの中でしか、国として生き続けられない。

自分にはアベノミクスが掲げる「成長戦略」の一つ一つに、いちいち文句があるが、それはひとまず置くとして、問題なのは、それらの「戦略」が、成果のきざしすらも出ていないし、もとより、ほとんど実行されている気配もないことだ。

たとえば「ホワイトカラーエグゼプション」やら「ダイバーシティ」やら、打ち上げる時だけは派手だが、それっきりどこかに消えていく。裏では担当の役人が「粛々と」進めているのかもしれないが、はた目には進んでいるんだか、ひっこめたんだかわからない。

このままだと安倍政権は、退陣後「お札をたくさんばらまいて円の価値を落とし国益を甚だしく損ない、世界の憎まれ者のアメリカの戦争につきあって自衛隊員と国民の命を危険にさらした国賊集団」という歴史的レッテルを貼られことになるだろう。