夢の不沈艦

 会社というものはたとえて言えば札幌雪まつり雪像のようなもので、それが外形上どんな偉容を誇っていても、季節が変わればたちまち溶けてしまう。外部環境の変化のもとでは、でっかいこと、かたいことなど、何の頼りにもならない。

巨大な雪像をくり抜けば、中は北国のカマクラのように暖かいはずで、その中にいる限り、外気の温度変化は感じられない。狭い空洞の中で、「和気あいあい」と、「やりがい」を感じ、「出世競争」をしているうちに、いつのまにか外側がすっかり溶けていました、なんてこともあり得る。

東芝の従業員たちは、朝出勤して昼まで働き、昼ごはんを社員食堂で歓談のうちに済ませ、1時間ごとにタバコ休憩しながら、午後も終業時間まで黙々と仕事するといった、判で押したような、しかし心穏やかなこの日々は、ほぼ永遠に続くとどこかで思っていたはずだ。

昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日が来る、という現実への確固たる信頼を「恒心」という。そんなチンケな安定なんぞクソくらえ、と元気のいい人は思うだろうが、元気な人の放縦なふるまいを支えているのは人々の恒心であり、それが崩れれば社会も崩れ、元気な人も元気でいられなくなる。

日本株式会社の一角を占める東芝が崩壊すると、その累は社員だけでなく、その家族、親族、サプライチェーン中小零細企業、得意先、地方自治体、そして国家へとその余波は及び、ごく少数のそれをチャンスに変換できる人を除き、ほぼ日本全土が多かれ少なかれ、何らかの良からぬ影響を被るだろう。

戦艦大和に搭乗するとき、乗組員は「このフネだけは絶対に沈まない」と確信していたというが、しかし沈んだ。おそらく東芝に入社したとき社員は「この会社だけはぜったいに潰れない」と確信していたと思うが、しかし沈もうとしている。不沈艦は見果てぬ夢だ。どんなに大きな船でも、大海原と拮抗することはできない。

東芝の社内で甚大な人心の動揺が起きていることは想像に難くない。人間や集団には、「窮すれば通ず」側面と、「窮すれば鈍す」の側面があるが、今回の東芝のケースはおそらく後者があてはまり、かの会社は、今、あとになってみれば「なんてあんなことをしたのかわからない」というようなふるまいばかりしている。

それは虎の子の稼ぎ頭である半導体部門を銀行の言いなりでむざむざ切り離そうとしていることであり、監査法人の抵抗を無視した暴走的な決算発表だったりであるが、その頭に血がのぼった状態で下される鈍く、稚拙な、手前勝手な「危機対応」が万力のように自らの首を絞めていることに気づかない、あるいは気づいていても、社内に充満する修羅場的空気の圧力で、ごく当たり前の判断ができない状態になっている。

そもそも人心の動揺以前に、もはや東芝は底の抜けたバケツのような、ただ日々稼いだそばから損失をたれ流すだけの装置と化しており、自分の印象を一言でいえば「もはやての施しようがない」レベルに至っている。

会社がこういう状態になれば、環境変化に柔軟に対応できる若手と、市場価値のある専門家から離れていくのが世の常で、残るのはそろそろ社会の第一線から卒業するロートル層と、ジェネラリストの中年だけになる。ロートル層の方はこれからさしたる痛みもなく会社を去っていくので、残るはジェネラリストの中年層だけになる。ジェネラリストはマネージメントは得意だが、もはやマネージする対象すらない組織体においてその力を発揮する場面はあまりない。

それでもシャープは生き残っているじゃないか、と思われるかもしれないが、今のシャープは外部の手で全身に整形手術をほどこされ、マインドもそうとっかえしたまるで別の組織体である。その意味では東芝も「別人」に生まれ変われば「存続」できるとも言えるが、それは会社法上の存続会社になっているだけの話で、本質的なことではない。