昭和16年夏の敗戦(猪瀬直樹)

 太平洋戦争が開戦する昭和16年、官庁や民間企業の三十代の選良を選抜して「総力戦研究所」なるものが組織され、そこの戦争シミュレーションは、対英米蘭戦争における日本の必敗をはじき出した。彼らが出した答えは、結論だけでなくそこへ至るプロセスもほとんど四年後に現実化したものと一致していたという。

三十代という年代は、経験と感性の最もバランスがとれた年代であり、しかも選りすぐりの頭脳が、各所属組織で日頃実務で対峙してきたデータや見識を持ち寄り、希望的観測や省益や私心を極力排除して考えたそうだから、こういう結論が出ることは特に驚くべきことでもない。

欧米に住んだ経験があったり、ビジネスや公務で欧米人と交渉した経験が豊富な日本人のほとんどすべてが、日本の開戦後の行く末に絶望的な予測をしていたのだから。

要は、こういう官民のエリートや、国際社会に触れていた人々が明確に日本必敗を予測していたのにもかかわらず、なぜ日本は戦争に突入していったのか、というところである。作者の猪瀬直樹氏の意図もそこを明らかにするところにあった。

しかし、開戦までのプロセスを緻密に追い、いかに嘆かわしい現実逃避や、愚かな政治判断が重ねられていったかは詳らかにしてはいるが、ではなぜ時の政府首脳たちが、そのような振る舞いしかできなかったのかについての明確な結論づけまでには至っていないように思う。

わずかにそれらしき分析は、巻末の特別対談の中にある以下のやりとりに見られるのみである。

勝間和代「冷静な議論ではなく、そういう『空気』によって物事が決められていくのは恐ろしいことです」
猪瀬直樹「ひとつはテロが怖かったからです」

たしかに、当時開戦慎重派だった海軍の米内光政や山本五十六は右翼のテロリズムの脅威にさらされていた。海軍がおこした五・一五事件でも、世論の同情や支持に押される形で、行政や司法は、その首謀者や参加者たちへ、明確に内乱と定義づけた厳正な処罰をするのに躊躇したという現実はある。また、その後、陸軍がおこした二・二六事件では昭和天皇の逆鱗に触れて首謀者が軒並み処刑されてはいるが、世間の「青年将校」ヒロイズムへの同情と支持は変わらずであった。

しかしそれを持ち出してきたところで、ではなぜそういったほとんど「好戦」と評してよいまでの対英米蘭戦争開戦への国民的、国家的な心理的傾斜が生じてきたのか、その答えにはなっていない。政府首脳はその心理的傾斜に流されたに過ぎないのだから。そこで重要なのは、「なぜ流されたのか」と彼らの右往左往を詳らかにし、怯懦を責めるよりも、そもそも「なぜそういう流れができたのか」という歴史観を持つことではないだろうか。


政府や軍部が独立して愚かな選択に突き進んだというよりも、日本の国全体が、もっと大きな、あたかも大河の濁流のような抗しがたい何かに導かれていったようなことではなかったのか。その「もっと大きな何か」を浮き彫りにしないかぎり、日本が「無謀な戦争」に突き進んでいた真の理由は、永久に明らかにされないままで終わるだろう。

きわめて拙い例えばなしになるが、開戦までの政府や軍部がたどった国家戦略の決定プロセスを検証することは、射殺事件の原因を追求するにあたり、拳銃のしくみを明らかにすることから取り組んでいるようなものだ。

機械的からくりによって発射された弾丸が被害者の胸に埋まってひとりの人間が死んだ事件の真因は「拳銃に殺傷力があったから」ではあるまい。その拳銃を握り発射した人間と、撃たれた人間との間にあった、心理的な葛藤のプロセスにこそ、その真因を求めるべきだ。この葛藤劇において、拳銃は単なる道具立てにすぎない。

同じような意味で、太平洋戦争開戦における政府や軍部首脳は、結果300万人の命が失われた、日本史上最大の群像悲劇における端役にすぎない。では真の主役はだれなのか?