空虚を満たす旅

 街なかで、中年以降の年代の夫婦と思われる男女が、犬を数匹つれて散歩しているのを見ることがしばしばある。

このうちに幾割かは、子供がいない夫婦で、彼らは子供の代わりに犬を育て、生活しているのだ、とも思われる。逆に考えれば、子供のいる夫婦では、犬がいない代わりに人間の子供を育てているのだとも考えられる。

もともと赤の他人の男女が、結婚でも同棲でもいいが、とにかく共同生活を営むには、なんらかの「生き物」を媒介とするのが、人性にかない、合理的でもあるのだろう。それは男女が生活をともにする意味のうち、もっとも主要なものは「生殖」であるという抜きがたい事実と関係がある。これはフェミニズムジェンダーなどを論ずる以前の、「生き物」レベルの事実だ。

もちろん、「生き物」の介在を必要としない男女関係もあるが、その場合の共同生活は、異性と言うより同性のそれに近似しているのかもしれないし、あるいは男女の性差を超えた「人間同士」の高度な交わりを希求した様相なのかもしれない。

小林秀雄に「人形」という短いエッセイがある。これは彼の文章にしては珍しく言いたいことがはっきり伝わる文章で、教科書にもしばしば登場するものである。

内容をかいつまんでいうと、作者が新幹線の食堂車で向かい合わせに座った夫婦の、妻が大きな男の子の人形をつれていた。妻はその人形の口にスープや食べ物を近づけ、それを自分で食することを繰り返す。作者はこの人形は夫婦にとって、あるいは妻にとって、死んだ子供の代用品であると推察する。作者には、この妻が正気なのか狂気なのか判断がつかないが、もし正気ならば、世間の好奇な目にさらされてもこれを続けないではいられないほどの、彼女の悲しみは深いのか・・・という内容である。

人形を人間の代用にするのは、世間の耳目からすれば、異様なことかもしれない。しかし、その人の人生そのものを支えていたような巨大な存在が突如消失し、心の中に巨大な空間が生まれ、その壁から滲みつづける流血と痛みが止めどもないとき、いくらかでも痛みを軽減するものが目の前にあるならば、世間の耳目など構っていられないものなのだろう。

ひょっとすると、人生の本質は、とどのつまりは「空虚を満たす旅」なのかもしれない。それが大きくあれ小さくあれ、「空虚」は渇望に満ち、苦しく、痛みを伴うものだが、そういう穴が有り、それを埋め続ける作業をしつづけることなくしては、生きている気がしないという厄介な業のもとに、人間は生れついているのかもしれない。