自信と自己肯定感

「自信」は社会的に価値があるとされる能力や実績や貢献によって得られるが、「自己肯定感」は親や共同体から無条件に与えられたり自分の内面の工夫で醸成するものだ。自分に「自信」があっても「自己肯定感」は希薄な人がいるし、逆もある。

実績や能力や社会的地位がある人の中に、むやみに威張っていたり冷酷だったりする人がいる。「自信」があっても「自己肯定感」がないとそういうことになりやすい。どんなに社会的に出世しても渇望が癒えず、心の安寧にいつまでもたどり着けない苦しみを、地位の高さを利用して上から下に圧しつけているのである。お門違いの「復讐」である。

本物の知性を持つ人たちの中にも自己肯定感のなさに苦しむ人がいる。物理学者の湯川秀樹がそのケースで、彼はこんなことを述べている。「子供のころから自分の心の中には深い空洞が存在していた。何か途方もなく大きなことをしなくては容易にその空洞は埋められないと思った。自分が発展途上の量子力学に挑み、たまたま中間子の存在を発見したのはそのような心の空洞を満たすためであったといえる。自分には世間的な栄誉を求めようとする気持ちは乏しい。しかし中間子の発見とその結果ノーベル賞受賞によって、その心の空洞は多少満たされたと思う。」

湯川秀樹は「何か途方もなく大きなことをしなくては容易にその空洞は埋められないと思った」と述懐しているが、これは要するに「後発的に何か途方もなく大きな自信を得なくては、幼いころからの自己肯定感の欠落は穴埋めできない」と言っているのである。ノーベル賞の栄誉をもってしても「多少」しか満たされない巨大な心の空白、人間の心とはそれほど厄介なもので、その様相は、想像を絶するほどの、深く、複雑である。

世に「脳科学」とか「心理学」というものがあるが、人間の心の動きにサイエンティフィックな普遍性や法則性を持ち込むことが妥当なのか、こういう言葉を軽々に受け容れたり振り回したりできる体質の人は、一度真剣に疑ってみたほうがいい。サイエンスの分析対象になるのは、例えば駅の券売機でお金を入れれば切符が出てくるように、確固たる法則性に裏打ちされた事象である。しかし、人間の心という「券売機」は、切符を買おうとしてお金を入れても飴玉が出てきたり、ジュースが出てきたり、札束が出てきたりする。われながらひどい比喩だが、ようするに「何が出てくるかまるでわからない」のである。本来こんなものはサイエンスの対象にはならない。

人間の心の集合的現象である「社会」や「世界」の実情も同じで、ある事件や事故が、社会や世界に、最終的にどういう影響を及ぼし、どういう結末につながるかは「まるでわからない」「まったく予想がつかない」のがデフォルトである。一見、成功や幸福に見える事態が大混乱や衰亡の端緒だったり、一見失敗や悲惨に見える事象が偶然の解決を提供するかもしれない。しかし社会はこういった不確実性に耐えられない仕組みにできているらしく、その堪え性の無さから生まれたのが「歴史哲学」やら「マルクス主義史観」やらといった、歴史の動きや社会の動静に法則性・普遍性つまりは科学性を持ち込もうとした試みだが、その命脈はたちまち反古にされていった。その法則性が導く解と、日々年々生成される現実が、あまりにも乖離していたからである。

歴史は不確実性を抱えながら、ラグビーボールのようにランダムに転げまわる。「人生は流転する。だから成功しても奢らず、失敗しても腐ってはならない」みたいなことがいいたいのではない。自分がいいたいのは、人間は「未来はどう転ぶかまるでわからない」「一寸先は闇」という真実に対峙する気持ちを見失ってはならいないのではないか、ということである。

ところで「未来はどう転ぶかまるでわからない」という不安定感に、一人の人間は長く耐えられるのだろうか。基本的に自分は「耐えられる」と考える。ただ、それには条件があり、それが「自己肯定感の保持」である。 鍵は、外界の動きではなく内面の状態にある。「要は気の持ちよう」とは誰もが口にする陳腐なことのようだが、これは文字で書くほど簡単なことではない。誰もが自分の心の動きを外界の動きにシンクロさせていて、それを怪しまない。来る日も来る日も外界の働きかけで内面に都度「喜怒哀楽」の激情を生じさせ、行動を翻弄されて、それが仕方のないことだと思っている。

外界の激動にも泰然自若、まるっきりの不動心など、哲学的妄想であるが、過酷な現実の作用で暴風が心の中で荒れ狂っても「この事態を精確に眺めよう」「正しい反応を熟慮しよう」と心がけることは可能だ。この心がけを支えるのは「自信」はなく「自己肯定感」である。例えばプロサッカーの一流選手は自分の社会的価値に「自信」を持っているが、彼が再起不能の大けがをしてボールを蹴られなくなれば、その能力の喪失と一緒に「自信」も彼のもとから去っていくことになる。そしてその時、彼の内面に「自己肯定感」が根づいているかが試されることになる。

人生は自分自身を敵に回して生きられるほど甘くない。どんなに嫌いな自分であっても、どんなに受け容れられない過去があっても、自分自身とは和解する以外に方途がない。自分を味方にするために外部に敵をつくるような迂路は要らないし、それでは本当の解決にはならない。また自己肯定のベースがあってこそ、現状否定による向上心も、有為な自己省察も生れるということにもっと人間は意識的になるべきだとも思う。