役に立とうが立つまいが

 知性の衣をまとおうが、あからさまな暴論だろうが、いま世の中には「働けなくなった老人は社会のお荷物だから早く死ね」的な言いざまが吹き荒れている。

これは他者に対する惻隠の情がないという意味で「冷酷」であり、いずれ自分もそうなるということに思考がたどりつかないという意味では「間抜け」である。

つまり、ウォームヘッドでクールハートな理論なのだ。

「社会の役に立たない者(老人や治る見込みのない病人やケガ人)はさっさと死ね」という立場は、何も現代人の専売特許ではない。

日本の姥捨て山伝説は言うに及ばず、ナチスは極端な例だが、じつは古代ギリシャ人も似たような考えで、ある意味普遍的な人間の思考態度だ。

「社会の役に立たない者はさっさと死ね」論理は、人間の集団をゲゼルシャフト(機能集団)としてしか眺められない人生観から導き出される。

確かに人間の集団は軍事的に経済的にも、効率と合理性を研ぎ澄まし、機能性を高めなくては外界との競争や闘争をしのいで生き残れない。

人間の集団の本質はゲマインシャフト(価値観や文化的背景を一にする共同体)である。共同体は、働き手や、家庭の守り手、生まれたばかりの子供や、死にゆく老人などを包含して構成され、一人の人間はその中で、「役立たず」として生まれ、「役に立ち」、再び「役立たず」として死んでいく。

自分がいま社会から有用性を認められているからといって、死ぬまでそうありつづけられると考えている人がいたらそれはとんだ夢想家だ。人間は共同体を支え、共同体に支えられながら生きていくしか方途が無い。

人生の中で機能的でいられる(社会を支えている側にいる)期間は、個人が思っているよりずっと短い。

「社会は人が老人になる間に作ったのだ。そして老人は死んで再びこの世に戻ってくる。それを繰り返せば繰り返すほど知恵がたまっていくのだ」というのが古代エジプト人の人生観を、文明人がいまひとたび取り戻すすべはないものだろうか。