反知性主義について

 先日聴いた佐藤優氏の講演によると、「反知性主義」とは、もともとはキリスト教の神学論争における一つの立場であり、聖書の語句や聖者のふるまいをを精緻に論理解析する「知性主義」に対して、そんな頭でっかちな屁理屈よりも、個人の信仰心の方がよほど大事だと主張するものだったらしい。

ようするに「反知性主義」とは「宗教とは、頭で知ることではなく、心で信じるものだ」という意味合いの言葉であり、これは宗教に対峙する心構えとしては、おそらく多くの人々の賛同するであろう、至極もっともな言い分なのである。

ただ、この「至極もっともな言い分」には深い落とし穴がある。

「知る」ということは普遍的なものだが、「信じる」ということは個人的なものだ。言葉を換えれば、知識は理性的なものだが信仰は感情的なものであり、知識は相対的なものだが信仰は絶対的なものだ。

絶対的なものとは、他者との比較や客観的検証を拒絶する、あるいは他者から隔離された場所に主観的価値を抱えながら独りで鎮座する、という意味でもある。

つまり「反知性主義」には、個々人の「信じる心」が重じられる一方で、常に、客観的検証や実証を蔑ろにした「自己流」「唯我独尊」「手前勝手」に陥る危険性が内包している。

さて、現代の日本社会において「反知性主義」者が具体的に誰を指しているかを約めていえば「安倍政権と橋下徹とそのなかまたち」を指すのが一般的になりつつあるようだ。

彼らが「知性主義者」たちから非難されている文脈も、この「自己流」「唯我独尊」「手前勝手」にあり、そういう意味では、本家の「キリスト教学における反知性主義」者たちと通底するものがある。

新旧の「反知性主義者」たちは、まず自らの実現したい「思い」があり、現実や事実をそれをこじつける材料として活用する、という思考パターンを採用する点において、よく似ている。

なお、現代の「知性主義者」たちは、この今を時めく「反知性主義」者たちを、その幼稚な手前勝手性を論拠にしてけっこう簡単に「バカ」扱いするが、よしんば相手が「バカ」だったとしても、それに向かってストレートに「バカ」呼ばわりするのは慎重であるべきだと自分は考えている。

その理由は、まず「バカ」対して「おまえはバカだ」といっても「おまえこそバカだ」という言葉が返ってくるだけで、結果的には、子供同士の「おまえの母ちゃん出ベソ」論争と同レベルの不毛さに陥るのが相場である。

さらには、リコウな人はたいてい謙虚だから、バカから「バカ」といわれると、反発する前に、「たしかに、おれってけっこうバカかも知れない」と殊勝にも内省してしまうから、この喧嘩ははじめから分が悪い。

さらに、バカとの言い争いは、終局的には「バカさの競い合い」つまりどちらかより巧緻にあるいは粗暴にバカげたことを言うか、そのバカさ度合いによって勝敗(現象としてどちらかが疲れ果てて黙る)が決するという、「同じアホなら踊らにゃソンソン」的な、破滅的結末しかない。

「バカ」と指摘されて即座に納得して神妙に改心するような人ははじめからバカなんてやっていないのだから、結論を言えば、バカにバカとは言うだけ無駄だ。ようするに「相手が悪い」のである。

では「バカ」の本質とはいったい何か。世間一般が定義するバカとは「論理的思考力や知識の欠如あるいは不足」のようなものだろうが、そういうバカは多くは人畜無害でありまだ救いも可愛げもある。

度し難いのは「論理的思考力や知識があるバカ」である。

先走って結論を言えば、(自分の定義するところの)「バカ」とは、レトリック(雄弁や詭弁で相手を言い負かすこと)に執心し、ディアレティック(対話により真実を見つけようと努めること)ができない人、平たくいうと「相手の言うことに聞く耳を持たない」人間である。

こういった「バカ」においては、彼の持つ潤沢な知識も精緻な論理的思考力も、多くは「相手を言い負かすこと」という目的の為に消費される。

つまり、「バカ」が議論の場で目指すのは、常に「相手を変えること」であって「自分が変わること」ではない。

人間が人間と言葉を交わすことで得る最も豊かな果実は「自分が変わること」であり、「相手が変わること」ではない。「相手を変えること」を目的として使われたとき、言葉は戦いの道具になり、その事前準備としての「理論武装」が必要になる。

理論武装」した論者のふるまいは一見知的な外貌を見せるから、多くの人は彼を「バカ」だとは見抜けないし、論者自身も、自分がバカまる出しであることに気づけない。

「自分を変える」のではなく「相手を変える」という目的でしか言葉を使えない人、あるいはそういう目的で大量の言葉を操ることを悦びと感じる人を「バカ」と呼ぶ(少なくとも自分は)。

そしてバカとバカの議論は、互いに「自分を守り、相手を変える」ことを目指して行われがゆえに、永遠にかみ合うことはない。

なお、「自分が変わる」とは、外界の論理に屈服するという意味ではない。外界からの強い論理や情報の清新な刺激によって、自分の知性や感性が、さらに豊かに、さらに鋭く、高次元で生まれ変わる、という意味だ。

ちなみに、これがおそらくへーゲルのいう「アウフヘーベン」の正体だ。この言葉は日本では「止揚」と訳されているが、この場合の「止」は特に意味のない言葉で、要するに「揚がる(上がる)」という意味になる。

では、バカとは「信念の人」で、リコウとは「無定見の人」の謂であるか。これは一面イエスである。しかし、「大欲は無欲に似る」または「大賢は大愚に似る」という言葉と同じ意味の深さで、「本物の信念を持つ人は、一見無定見に見える」というのも、おそらく真理なのである。

つまり、バカとリコウでは、「信念」が在るところの深さが違うのだ。バカは信念が具体的で浅いところにあるが、リコウな人は信念が抽象的で深いところにあるため、表には顔を出しにくいのだ。

反知性主義」者とは、頭の出来不出来や蓄えた知識量の多寡とは関係なく、他者や外界情報に対する反応態度や、異論に対するマインドセットがまるでなっていない人たちである。

そして、実を言うと、自分自身も同じ穴のムジナかもしれないという疑いを、自分は密かに持っていたりする。