無人兵器の非人道性について

 戦場において、人間の肉体が物理学や化学の破壊力と全面的に対峙するようになったのは第一次世界大戦からだといわれている。鋼鉄の戦車や、飛行機や毒ガスが人間の身体を圧倒的な力で損ない、息の根を止める光景が全ヨーロッパに広がった。それが人々に与えた衝撃の深さは、文字通り「画期的」なもので、第一次世界大戦を嚆矢とし人類史における戦争は新たな局面に入った。

それまでの中世的な、あえていえば素朴で牧歌的なロマンさえ漂う戦争とはケタ違いのおびただしい犠牲者を出し、その終戦後、義手や義足の製造技術や整形外科の手術技術が飛躍的に高まったといわれるほど、ヨーロッパ中には身体を毀損された兵士や民衆があふれかえった。人類は、第一次世界大戦によって「戦争の悲惨さ」というものを、有史以来初めて思い知ったのである。

しかし人間は、第一次世界大戦の惨禍に懲りるどころか(直後の軍縮機運はあったにせよ)、敵国を殲滅させ降参させるために、サイエンスの力を借りて、飽くことなく兵器の強力化に邁進した。その到達点の一つが原子爆弾水素爆弾に代表される核兵器だ。

そして現代に至って人間は、見方によっては核兵器よりも更に恐ろしいものを開発し運用しつつある。それが「無人兵器」だ。

なぜ無人兵器がそんなに恐ろしいのか。無人兵器に無人兵器で応戦する時代になれば、機械同士の代理戦争で決着がつき、生身の人間は血を流さなくてすむようにさえなるのではないか・・そういうビジョンにも一理ある。確かに、現代においては戦争の勝敗は最終的には兵器の質と量で決まるのだから、そこで優劣がはっきりつけば、もはや生身の人間を殺す必要がなくなるのはひとつの道理だ。

しかし、戦争は人間が起こすものだ。どこをどう言い繕っても、戦争の根本の動機は、敵に対する恐怖や怨嗟の「感情」である。だから、いくら兵器力で交戦国を凌駕することが明確になっても、敵の生身の肉体に実害を及ぼさなくては、勝った側はカタルシスを得ることができない。負けた側も、たとえ機械同士の代理戦争で後れをとっても、自分の肉体がピンピンしていれば負けた気がせず、飽くまで抵抗を試みるだろう。

結局、無人兵器同士の戦いは前座であり、いずれにせよ生身の人間が血を流しあう古代以来のお互いの肉体を賭した戦争で決着をつけることになるだろう。

それでも、生身の人間同士の殺し合いならば、劣勢な方のみならず優勢な方も少なからず傷つき、いずれ交戦する両国に厭戦・嫌戦機運が広がりはじめ、そして和睦と終戦への道が開かれる。朝鮮戦争ベトナム戦争で、アメリカ軍を戦場からの退却に導いたのは、戦闘における勝利でも敗北でもなく、自国軍兵士のおびただしい死傷による厭戦の気運だった。

起きてしまった戦争や、起こりかけている戦争を押しとどめる力の正体は、受ける被害による悲惨さの実感や予感である。人が死ぬことの歯止めは、人が死ぬことによってしか得られない。

しかし、空調のきいた快適な部屋で、コーヒーを傍らに置いた机の上でリモコンを操作し、敵国兵士や民衆を思うがままに殺戮する一方で、自国軍兵士たちはいっこうに無傷のままだったらどうだろうか。国内で反戦世論が高まることはあり得ないだろう。

たとえ、敵国が「何でも言うことを聞くから、もうやめてくれ」と血の涙を流しながら無条件降伏を申し出ても聞く耳を持たず、「なにをいまさら」と片頬に笑みを浮かべながら、最後の一人を殺すまで蹂躙をやめないだろう。

安全な場所を確保しながら群なす敵をかたっぱしから狙い撃ちにする、獲物はテレビゲームのようなバーチャルなものではなく、生身の肉体を持つ人間たちだ。こんな悪魔的な快楽をもたらす「ゲーム」を、勝っている側の人間が自らの意志の力でやめることなど、到底考えられない。

自分が無傷のまま相手を完膚なきまでに(望めば最後の一人の息を止めるまで)追い込むことができる戦争、言葉を換えれば、交戦国間の戦争被害の極端な非対称性が生じやすく、和睦と終戦への合意が容易に形成されない戦争、それが無人兵器による戦争である。戦争自体もともと非人道的だとはいえ、ここまで非人道的な兵器は空前ではないだろうか。この非人道性は、まだ社会の共通認識にはなっていないが、いずれ白日の下に明らかになるだろうと自分は思っている。