進化論の穴

「キリンの首は高いところの草を食べるために長く伸びた」というラマルクの用不用説は現代では妄想扱いされているが、先ごろ、親の恐怖体験の記憶が子に継承される可能性を示唆する実験結果が出たという報道があり、これが敷衍されればラマルク説も妄想とは言い切れなくなる可能が出てくる。

http://www.asahi.com/articles/TKY201312040021.html

そして、この説をさらに拡大すると、「鳥(あるいはその先祖としての翼竜)が空を飛べるのは先祖代々あの大空を飛びたい、あるいは空中を飛ぶ虫を食べたいと熱く念じ続けた記憶の成果である」という仮説も成り立つ余地が生じていくるかもしれない。

実際に空を飛べるようになるまで、「手(足)」が「翼」に進化するには途方もない時間がかかったとも思われるが、手が翼に変化する途中の「まだ空が飛べない中途半端な翼」、つまり「手としても足としても翼としても機能しない中途半端なもの」の存在意義はいったいなんだったのだろうか。存在意義がない以上、そもそも、そんなものは存在しなかったと考えてはどうだろうか。

このように、「手から翼への進化」にフォーカスして考えてみると、進化論の穴が見えてくるような気がする。つまり翼は手の進化の帰結ではなく、手は翼に一気に切り変わった、あるいは、空を飛べない親から空を飛べる子供が突然生まれた、と考えた方が合理的なような気がする。

鳥にせよ、飛行機にせよ、UFOにせよ、引力が作用する地球の大気の中で、物体が空を飛行するには、航空力学だが流体力学だかしらないが何らの厳密な「物の理(ことわり)」と、飛行体の翼の形状や運動エネルギーとの精緻な適合が不可欠である。

その適合が寸分でもズレれば、物体は空を飛ぶことはできない。そんな高度なトライ&エラーを、鳥の先祖たちが長い進化の過程で倦まずたゆまず繰り返してきた・・とは自分にはどうも思えない。

おそらく鳥は、「じりじり進化して少しずつ飛べるようになった」のではない。そもそも、空は「飛べる」か「飛べない」か二つに一つであり、「少しずつ飛べるようになる」という現象はありえない。(ただ、飛べる時間や距離が徐々に長くなってく進化はあったかもしれない)

つまり、「飛べるヤツがいきなり出てきた」のである。

その世界でたった一匹の初代「空を飛べる鳥」は突然変異だったので生殖能力がなく一代で途絶えたが、しだいにその突然変異は世界中のあちこちで起こるようになり、いつしか生殖の能力を備えた「鳥」として繁殖するようになった・・という仮説はどうだろうか。

この話を「キリン」に戻してみると、キリンの首は徐々に長くなったのではなく、一気に長くなった、あるいは「首が長いキリン」突然変異的にいきなり生まれた、ということになる。先祖代々継承し蓄積してきた妄想願望、つまり「あの高いところにある草を食べたい」「大空を自由に飛び回りたい」といった記憶の連鎖が、ある子孫の代に至って一気に現実化した、といってもいいかもしれない。