漂流する「保守」

●戦後ながらく日本の保守勢力は「親米」をその党是としてきたのだが、安倍政権はついにアメリカと決別しようとしている。アメリカが主導した東京裁判の否定や、アメリカがつくった憲法を改正する政治的運動や、アメリカが判定したA級戦犯を祀る靖国神社参拝や、アメリカが音頭をとるTPP交渉の棚上げなどの一連の動きは、アメリカからすれば日本からの「もう、あなた方とは決別します」という明確なメッセージとして受け止められる性質のものだ。日本にそのつもりがあるとかないとかは関係なく。

アメリカ政府が安倍首相の靖国参拝への「失望」を表明した時、「こっちこそ失望した」と政府高官が述べたそうだがたいそう滑稽な話だ。靖国神社にはアメリカが断罪したA級戦犯が祀られているのだから、日本国首相の参拝には反米のメッセージがあり、それをアメリカが不快に思うのは当たり前だ。「中国と日本のどちらの肩を持つんだ」的な言いぐさでアメリカに迫るのは、「あたしと仕事とどちらが大事なの」なみの頭の悪い言いぐさで、そんなことを言えば「アメリカ様」に二重に呆れられるだろう。

●日本とアメリカはとことん友好的には付き合えない運命にあるといえる。この関係は、徹底的に対立するか、絶対的に服従するかのどちらかであり、前者は幕末から終戦までの関係であり、後者は終戦から現在までの関係である。

●そもそも「親米保守」というあり方自身が不自然だったともいえる。保守思想から夾雑物をとりのぞき、純度100%に蒸留すれば、その原液として姿を顕すのは右翼思想であり、右翼の基本思想は「攘夷」つまり「反欧米」を旨とする。つまり保守である以上「反米」が正統的なあり方であったのだ。

●なぜ日本の「保守」は戦後七十年ちかく奇妙なことに親米でありつづけたのか。その答えは簡単で、左翼が「理想的な非武装中立」を叫んだから、そのアンチテーゼとして「現実的な日米軍事同盟」を選んだのである。つまり日本の保守の親米は左翼への対立軸として成立しており、もとよりアメリカ様を心からお慕い申し上げているわけではないのである。

●保守の反米であるべきところが図らずも親米になっているねじれ状態は、いつか露呈する運命にあった。おそらく安倍首相自身には、アメリカに反旗をひるがえす意志も思想もない。彼はそんな大それたことが意志的にできる器ではない。それなのに、近ごろはからずも壮士風を吹かせた反米的ふるまいを連発しているのは、安倍氏の個人的なイデオロギーの発露というより「反米保守」というポリシーそのものに根本的矛盾が内包されていたからである。

●反米とは、日本においては左右双方にとっての思想的作法であった。左にとっては「反米・親ソ」、右にとっては「鬼畜米英」という言葉がそれを表象している。反(欧)米思想の源流を訪ねると、それは幕末の攘夷思想である。つまり日本における左右の思想は、「攘夷」を原点として共有している。

●右翼的攘夷のもっとも先鋭的な現実事象は太平洋戦争だが、左翼的攘夷の方はいわゆる一連の安保闘争学生運動である。いまにして見れば当時の運動家や学生たちが安保条約をどう理解し何に反抗していたのかさっぱりわからないが、これは「攘夷」の文脈で理解すればすっきり判る。

ゲバ棒とヘルメットで、核兵器を搭載したアメリカ艦船を国外に追い出そうとする学生たちの姿は、大砲を備えたペリー艦隊に槍や刀で対抗しようとした幕末の武士や、火器をふんだんに備えて本土に上陸してくるアメリカ軍を竹槍(得物が100年前の槍や刀より退行していることに驚くが)で向かえ撃とうとしていた「銃後の国民」と酷似している。

アメリカと決別するのならそれもアリなのかもしれない。アメリカは日本の幕末以来の国是的精神である攘夷(国粋主義と対外排斥)のもっとも先鋭的な標的であり続けたし、そもそも20万人を原爆で吹き飛ばし、70万人の無辜の民間人を空爆で虐殺し、さらに裁判という名の司法リンチで時の政府首脳を絞首刑にした国と、60年間も仲良くしてきたのが異常といえば異常だったのだ。

アメリカと決別するなら、その代わりにどこの国と手を組むのかを明確にしなければならない。おそらく日本が本来手を組むべき相手は、地球の裏側のアメリカではない。それは地理的にも、文化的にも近しい間柄である中国や韓国という儒教文化圏の国ぐにだ。

●「反米(かつてはセットとしての親ソ)および親中国おまけに韓国」といえば左翼の専売特許である。だから保守(右翼)としては勇ましくアメリカを追い払った後、さて、といって中国や韓国にすり寄るには心理的抵抗が大きすぎる。その心理的抵抗は日本への積年の恨みがある中国・韓国のとっても同じことだ。さらにいうと韓国は北朝鮮に対抗する必要上アメリカとの同盟関係を破棄することは断じてできないのだから、日本のアメリカとの決別は自動的に韓国との決別になる。かくして日本は、アメリカと決別したあと、天涯孤独の身となる。

●国際社会において孤立することがいかに恐ろしい結末を招くか。その答えは、戦中に日本が選んだ孤立主義(太平洋戦争中に日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を結んでいたが、実質的にはほとんど機能することはなかった)が、どんな結末を招いたかを思い返せば容易に出るだろう。

●日本のおける保守思想とは、本質的に左翼の「革新(あるいは進歩)」思想へのアンチテーゼだと理解した方が立ち位置が明確になることがある。そして、革新のアンチテーゼとしての保守には、2つの面がある。一つは右翼的な国粋・排外主義であり、もう一つは「無思想」である。

●保守の無思想性とは何か。それは特定の固定的なポリシーを持たず、目の前の現実事象を追随し、良い意味でも悪い意味でも「融通無碍」に対応し過剰なまでに外界環境に適応しつつ生きていくということだ。(これが功を奏したのが田中角栄政権・中曽根康弘両政権を頂点とする自民党の黄金時代である)

親米保守とはこの融通無碍、すなわち何でもアリ、つまり結果良ければすべてよし、「生き延びる」という目標の前では手段を選ばないという思想性(というか、もはや思想の体をなしていないが)の産物だが、今の安倍政権(あるいは安倍氏個人)は、それを捨て、「正統派」の右翼的保守に舵を切ろうとしている。この結果は吉と出るのだろうか、凶と出るのだろうか。自分はおそらく後者だろうと思っている。