偶然

 ある日の午後、自分は数人で会社の狭い会議室にいた。ときおり談笑が混じるような気楽な雰囲気の中、ふと自分は、これまでの何十年間まるでちがう人生の軌跡をトレースしてきた人々が、今同じ場所に居合わせている不思議を思った。

 半年ほど前、ある広大な公園の敷地内で、高校を卒業以来三十年ちかく一度も会ったことがない同級生とばったりでくわした。特に親しい間柄でもなかったので、お互いが気づいていない振りをしてすれ違っただけだが、それは間違いなく同級生のKで、彼の方も自分に気ついていたふしがあった。

 卒業後の三十年間で、お互いが移動した距離が「地球何周分」になるのか見当もつかないが、その途方もなく長い軌跡の果てに、同じ時間に同じ地点に居合わせる確率を割り出すことができたなら、それはきっと小数点以下のゼロが「天文学的」に並ぶ数字に違いない。

 自分には妻と娘がいる。妻と自分は同じ会社に勤めていた縁で知り合ったのだが、妻に出会う前、自分はかなり熱心に転職活動をしており、もし1社でも自分を採用してくれる会社があったら、妻と自分は永遠にすれ違ったままで、当然娘だって産まれていない。

 自分の転職活動が成就しなかったのは、自分自身に志望先の会社が求める能力が無い(あるいは無いように見えた)からだが、そうなると自分は、無能だったおかげで今の妻そして子どもにめぐり会うことができたということになる。無能も時には役に立つことがあるものだ。

 誰しもが僥倖の連鎖を望むが、その願いが聞き入れられることは稀で、直面する現実に一喜一憂する不安定な心を抱えて生きている。ただ、不運が幸運を招き幸運が不運を招く波動があることを知っておくことは、不運にも絶望せず幸運にも惑溺しない心構えにつながる、かなり大切なことだと思う。

 古人はこの真理を「禍福はあざなえる縄の如し」という短い言葉で見事に言い切った。(それにしても諺というものは、なぜこうまでに揃いも揃って見事なものばかりなのだろうか)

 人生とは自分自身の力で雄々しく切り開いていくべきものでもあるし、如何ともしがたい災厄に女々しく流されてしまうものでもある。そしてその大半は後者、つまり偶然に翻弄されながら女々しく流されていく時期であり、その渦中では幸運と不運の目がかわりばんこに顔を出す。

 その最後の一瞬に「幸福」の目が出れば、その人生は総決算として幸福だったという「終わりよければすべてよし」という考え方もある。しかし、人が生きる目的というものがあるとすれば、それは終局的に幸福であることではないと自分は確信している。なぜか。それは幸福とは意志の達成というより偶然の産物という色彩が濃いからだ。偶然の産物を目標に据えることはできないではないか。このあたりの理路は我ながら混沌として矛盾をはらんでいる。いずれすっきりと整理するべきだとも、整理するべきではないとも思っている。