改革と苦難

 鳴り物入りで始まった改革機運が尻つぼみになった最近の事例として「ゆとり教育」と「司法制度改革」がある。「ゆとり」は「ゆるみ」になって学力低下を招き、「司法制度改革」は法律家の過剰供給によって価値崩壊を招いた、というのが主な理由のようだ。

ゆとり教育」導入の理念は、「現行の機械的なクイズ的知識の詰め込み教育を排し、考える喜びを子供たちに教え、創造性を開発する」という崇高なものだったはずだ。なぜこれが「誤りだった」ということになるのだろう。

司法制度改革についても、法曹人口と拡大による弁護士過疎地の解消と競争原理による質の向上、一般市民の司法参加による判決への常識感覚の活用という理念は全く正しいはずだ。

その正しさの代償として「詰め込まれる知識の減少=学力」の一定の低下は、折り込み済みだったはずであり、法科大学院の卒業者にどんどん法曹資格を与えれば、これまでの法曹資格の希少性が毀損され、仕事にあぶれる弁護士が大量発生することも覚悟の上だったはずだ。

「こんななずではなかった」ことが起きたのではない。当たり前のことが当たり前のように起こっただけだ。それなのに、なんでこうもかんたんに機運が消沈するのか。これは皮肉を言っているわけでも「だからゆとり教育も司法制度改革も初めから絵空事だったのだ」といいたいのでもない。

自分は、こんな折り込み済みのネガティブ現象にへこたれることなく、今後も教育行政は「ゆとり教育」の成果を出す知恵を絞るべきだし、法務行政は「司法制度改革」を継続するべきだと思っている。なぜならその理念はまったく正しいのだから。

もしかすると今から脱原発運動で同じことが起きるかしれない。「脱原発」を進める以上、反作用として、停電や節電義務の強化による企業活動の停滞や日常生活の不如意も起こり得るし、化石燃料の輸入によって貿易赤字はかさむし、二酸化炭素の大量排出によって地球温暖化も進行する。

そんなことは全部覚悟の上での「脱原発」のはずだ。しかし、「ゆとり」や「司法」の先行した「失敗」を眺めていると、これらのいくつかの不都合は、人々があっさりと「脱原発」を放り出すのに十分すぎる動機を与えているように自分には見える。

思想を実現するには時間がかかる。そして人々に我慢を強いることもしばしばだ。思想は現実から生まれるが、現実は予期せぬ姿で現れ、思想の実現を阻む役回りになるのがふつうだからだ。しかしこれはそんなレベルの話ではない。

予期せぬ試練どころかふつうの頭ならば十分に予期できた現実にさえ向き合うことができず、さっさと店じまいする程度の薄甘い覚悟で始めるのならば、いっそ初めからやらないほうがマシだった、ということになってしまうだろう。