ある思い上がり

東日本大震災の直後に、小説や演劇など表現をなりわいにしている人たちが、こういった圧倒的な天変地異や悲惨な被害を目の前にすると、今まで我々は何をしてきたのだろう、そして今我々に何ができるのだろうと無力感にさいなまれる、ようなことをよく言っていた。

世間や、あるいはその言葉を発している作家自身も、これを作家的良心の発露のように、どちらかというと好意的に受け止めていたのだが、自分はこのたぐいの発言には違和感があった。その理由は二つある。

ひとつは、大きな事件や被害があり、そのせいで今まで作ってきた作品がとたんにくだらなく見えたとしたら、それは事件が起こる前から、すでにくだらなかったのであり、彼らはそのことにあまりに無自覚のように感じられるからだ。

もう一つは、大地震という情け容赦のない天変地異や悲惨な被害に際して、文芸のごときが何かできると考えること自体が勘違いであり、ある意味思い上がりでもあるということだ。

小林秀雄は戦時中に、以下の意味のことを言っている。「さきごろ、非常時に処する文学者の覚悟如何、なんてことを訊かれたがバカバカしくて答えなかった。自分にはそんな戦意高揚めいた役目が文学にあるとは思えない。文学というのは平和の営みであって、今日のような非常時に果たすべき役割など何もない。自分にできることは、いつものように粛々と文章を書き、一朝、召集されたら直ちにペンを捨てて銃をとることだけだ」自分はこの覚悟に深い洞察を感じる。

今回の震災に際してこれに類することを述べていたのがビートたけしだ。彼は「お笑いというのは、衣食足りて、心が平穏でいてようやく楽しめるもので、今、被災者に対して、自分がお笑い芸人として果たせる役目など何もない」と言う意味のことをいっている。彼が小林秀雄にならって言葉を続けるとすれば、「できるとすれば、お笑いなど捨てて、ボランティアで汗を流すことだけだ」ということになるだろう。