人、いずくんぞ隠さんや

言葉の核心にはメッセージがあり、それは時に表向きの意味とは食い違うことがある。ぶっきらぼうだが思いやりがある言葉や、丁寧だが底意地の悪い言葉や、寛容の姿を借りた狭量な言葉や、冷静だが焦りの色が見える言葉が、そこらじゅうで飛び交っている。

発している本人すらも気づいていないような本音が、知らぬ間に相手に届き、心を深く傷つけ、取り返しのつかないまでに関係を壊すことがある。「そんなつもりはなかった」なんて子供じみた言い訳は通用しない。自分でも自覚していない「そんなつもり」が実はあったのだと考えたほうがいい。

それを予防する方法がたった一つだけある。それは「この言葉を聞かされた(読まされた)相手は、いったいどう感じるだろう」という自己検閲を、言葉を発する前に習慣づけることである。

いってみれば、相手に刃を向ける前に自分の皮膚でひと撫でしてみる習慣だが、この習慣を実効性のある形で継続するには、高度な知性と豊かな情緒(クールヘッドとウォームハート)が必要で、誰でもできるわざではないし、当然ながら、自分にもぜんぜんできない。

だから、いっそ「本音というものは決して隠すことができないもので、いずれ露見するものだ」と覚悟しておいた方がいいのかもしれない。その覚悟はきっと相応の慎重さにつながることだろう。

論語の中にある「人いずくんぞ隠さんや(人間は自分の正体を隠すことはできない)」には、「人間は外形で中身を取り繕うことはできない」という意味と「だから言動には気をつけろ」という二重の意味があるような気がする。