古を稽える

日本では芸事や武道の練習を「稽古」というが、これは「古(いにしえ)を稽える(かんがえる)」という意味だ。つまり日本的(あるいは東洋的)価値観では、まず古いものの完璧性を前提にする。

つまり、昔の名人・達人はお手本にすべき存在であり、そこへ一歩でも近づくことが今を生きる人間に課せられた責務である、とする。そこには「進化」や「進歩」という思想は希薄だ。

この哲学は、単なるアジア固有の文化的因習なのだろうか、それとも何らかの普遍性のあるものなのだろうか。

たとえば、東京オリンピックの体操選手の演技を現在の視座から評価し、「この時代の体操は完璧だった。現代の選手はすべからく当時の体操をめざすべきだ」などという専門家はいないだろう。東京オリンピック当時の演技レベルでは、現代では、中学生の地方大会でも入賞することは難しいかもしれない。

つまり、体操の場合、技術は絶え間なく時系列で進化し、進歩している。また、他の多くのスポーツにおいてもそうに違いない。「稽古」を旨とする剣道や柔道においても、三十年前と現代とでは競技レベルに隔絶した進歩が見られる。それは昔の試合の様子を撮影した映像をユーチューブなどで見ると、とてもよくわかる。

しかし、だからといって、すべて文化・芸術・スポーツの分野において時系列の進化や進歩が当たり前だ、というわけではない。そのもっとも先鋭的な例が、「書」の世界だ。

 書道界の価値序列では、今から千六百年昔の王羲之・王献之父子を頂点に仰ぎ、玄人・素人こぞってその臨書に励む。つまり、書道の世界においては、すでに完璧性を規定された動かしがたい「お手本」あり、そこににじり寄ることはあっても、そこを乗り越えることなど未来永劫ありえない、という一種の諦観めいたものが斯界に漂っている。

これは、書道界が権威主義が蔓延した硬直した特殊業界ゆえ・・というわけではない。白川静氏の著作に以下の一節がある。

「甲骨文にしても金文にしても、草書にしても、その新しい様式が出現するとともに、もっとも完成した機能を示しているようにみえるのです。こられは一見して不思議なことのようですが、しかしこれは、新しい様式を生み出そうとする力が、その出発のときに凝集されるのであって、内部の蓄積されたエネルギーが、一時に発したものとみることもできます。そしてこのとき、書はもっとも美しい姿をあらわすのです。」

また、こういう文章もある。

「文字は最初に出たものほど立派なんです。歴史が常に発展向上して高められてゆくものだと考えるならば、書の歴史はまさに逆です。一つの様式が生まれたときが、最高の表現だったということなんですね。だから歴史という物をあまり狭く考えてはならないわけです。」

白川氏は「歴史が常に発展向上して高められてゆくものだと考えるならば、書の歴史はまさに逆です」という。この論説の当否を判別する教養は自分には無いが、まさに、ここにこそ、書道界の一見硬直したかに見える価値体系が確固として息づいているわけがあるように思う。

つまり「書」においては、すでにはるか昔(極端にいえば、文字が生まれた直後)に造形上の完璧性に達しており、後世の人間がなしうることは、そのフォームをなぞることだけだ、ということなのである。

 書家が独自の個性や創造性を発揮することは、その正道をあゆむ限り、ほぼありえない。「現代書道」を標榜する作家は少なからずいるが、彼らはおそらく瞬間風速の流行を出ず、彼らが、有史以来の営々たる書道史にその名を刻むことも、おそらくありえないだろう。

完成された型があり、その完璧性の再生を目指す価値体系は、能や歌舞伎、華道や香道などの日本古来の他の芸事にも共通してあるが、上記の芸事は、書道に比べると、まだ革新や変革を許すふところの深さがあるように思う。
 
 文字は元来、人間の意思疎通の道具であり記号である。記号である以上、社会的共通性を基盤とする。だから、個性や創造性の発揮といった、共通性の破壊あるいはそこからの逸脱行為は、文字ほんらいの機能の否定あり、原理的に許されざるものである。

つまり書道という行為は、書くことによって言語情報を伝達するでもなく(それを目的に含む場合もあるが、多くの場合二の次の扱いになる)、かといって絵やイラストのように純粋にグラフィカルなものでもない。言うなれば、人間の知性に照らしてたいそう不自然な存在なのだ。

 だから、このような「不自然な芸術」が成り立つのは、せいぜい漢字文化圏に限られているのだろう。

 このように、「書道」には他の芸術には見られない異質さがあるのだが、この異質さこそが、書道のユニークさであり、抜きがたい魅力の源泉なのかもしれない。妙な言いかたになるが、きっと、個性や創造性を否定しているところにこそ、書道の偉大さがあるのだ。

 現代書家を標榜し、個性を発揮しているかに映る作家たちも、いつしかきっと、王羲之・王献之の価値体系に回帰していく日が来る。その帰参者をいつでも抱擁して迎える用意があるという意味では、書道の歴史は途轍もなくふところが深い、といえるのかもしれない。