プロセスという滋養

「失敗の本質」という本がある。これは戦前戦中の日本の戦争指導者の「失敗」を検証することによって、次世代が同じ失敗を繰り返さないことを期して作られた本だと理解しているが、この本が結論づけるところの「失敗の本質」は、煎じつめると「現実を直視せず、合理的な判断ができなかった」ということに尽きているようだ。

さて、この結論は、何かの役に立つのだろうか。自分は、陳腐すぎてなんの訳にも立たないと思うが、かといってこういった本を編むことや読むことには何の意味もない、というわけでもない。

意味がないのは抽象的な「結論」から何か教訓めいたものを学ぼうとする態度だ。

この本の価値は、過去の事実を巨細にわたって振り返る過程で、国ぐるみで奈落の底に落ちようとしている時代に漂っていた、なんともいえない不吉さが漂う「いやな感じ」を、書き手と読者がともに追体験するところにある。

この「いやな感じ」が体に染み通れば、未来において再び同じような生理感覚がこみ上げてきたときに、「またこの感じか。きっと同じようなことが起きるぞ」と予覚することができるだろう。この本は、そういった体内センサーを「仕込む」効果が期待できることにおいて価値がある。

逆に言えば、この本は、どんなに膨大な情報を詰め込み、いかに精緻な筆致で戦争への道程を描き出そうとも、時の経過とともに徐々に昂じていくその「いやな感じ」が表現できていなければ、その本来の目的を果たしていることにはならない、ということになる。

歴史の滋養はプロセスにある。「結果」にはその味を引き立てる調味料以上の意味はない。

たいがいの人は途中経過より「結論」を聞きたがり、こういった思考態度を合理的で、知的だとも思っている。しかし、同じ過ちを何度でも繰り返すのは、過去の情報を知的に再構成することばかりに囚われ、感じたり、味わったりすることを知らない、こういった人でもあるような気がする。