「常識」に甘えない

 日比谷文化図書館に、装丁家祖父江慎の企画展にいく。

 そこには、意図的な乱丁や、わざと不規則に断裁された本があり、たしかにこれはこれで面白いのではあるが、こういう作品が成立する前提として、「世に出回っている書籍のほとんど全てが細心の注意をもって精確に造本されている」ことが必要である、ということを思った。

「詐欺」という手管が成立するためには「ふつうの人は、他人を無闇に騙さない」という前提が要り、また、自分の性器を公然とさらして「これはアートだ」と言い張る行為は、「ふつうの人は自分の陰部をさらすような下品なマネはしない」という常識に支えられている。

奇抜さや奇矯さが存在感を持つには、盤石の「常識」が支配する世の中でなくてはならない。これは、蓮の美しさを際立たせるには「泥沼」という背景を要するのに似ている。(現象的には真逆ではあるが)

常識とは、決して人間社会で自然発生し何の気なしに広まっていったようなものではなく、共同体保持の切迫した必要から生まれ、その成員の無言の総意と無意識の努力の結晶体として存している気味あいのものだ。

だから、ことさらにそれに反する行為をして、世間を驚かそうと企む人は、なべて世の「常識」や「良識」にだらしなく甘えている、ということになる。

本物の芸術家とは、常識に甘えるのではなく、常識を凌駕する存在ではなかろうか。同じ「常識から際立つ」のでも、「甘える」のと「凌駕する」のとでは、えらい違いだと思う。

自分は、祖父江氏を「詐欺師」や「自称アーティスト」と同列視しているわけではない。彼は押しも押されぬ公定の装丁家であり、緻密な配慮やアイデアの限りを尽くした作品が基調であって、今回展示されていたような意図的な乱調は、「遊び」や「余技」のたぐいですませるべき筋合いのものではあろうが、

展覧会を見て、本当のユニークさや、本物のオリジナリティとは何なのかを考えるいい機会になったので、以上記しておく気になった。