悠仁ちゃん七歳に想う
古来日本には男性を女性より「清潔」だと考える思想があり(実態はおおむね逆なのだが)、多くの古い祭祀が男性のみが参加を許される根拠には、この思想がある。
皇位の継承を原則男系男子に限るというセオリーの根拠にも、この思想がある。これを、旧弊であり、因習であり、迷信である、と言い切ることはやさしいが、人間や社会は、どこまでも旧弊や因習や迷信と縁が切れないものである。なぜならそれらが「文化」の実体だからだ。
文明とは合理性(あるいは効率性)の結晶であり、不合理(あるいは非効率)なものはそれへの参加は許されない。一方、文化は不合理の集合体であり、合理的なものを排斥すればするほどその純度は高まる。
皇位の継承を男系男子に限るイデオロギーは、日本における男尊女卑思想の最後の牙城でもあり、そういう面からもこれを死守しようとする向きは多いのだが、しかし、皇位継承問題が直面している課題は、皮肉にも、その文化性を守ろうとすればするほどその存続が危うくなるところにある。
「男系」に執着して皇統を根絶やしにするか、「女系」を容認して存続を図るか、それは究極の選択ではあるが、現実問題としてはそのどちらかしか、日本人の選択肢はない。(もうひとつ、戦前の宮家を復活させるというアイデアがあるが、彼らがすっかり市井に染まった今に至っては、これはありえないと思う。)
この問題は、今のところ好事家が細々と議論をやりとりしているのみだが、二十年後、現在七歳の悠仁親王が結婚適齢期にさしかかったときに火が着きはじめ、「なかなかお妃が見つからない」(こんな激烈なお世継ぎプレッシャーを引き受けようとする女性がやすやすと見つかるわけがない)三十年後にきっと爆発する。
爆発してしまえば、ほぼ手遅れ。議論を深めるのは今しかない。
そしてその主題は、「そもそも日本人は天皇家を保持する気があるのか無いのか」という意思の確認が本質になる。
それは、文化的矜持を抱き滅ぶか、文明的合理性を選択して生き永らえるかの選択であり、結果「存続」のコンセンサスが明確になれば、とるべき手段は女系の容認以外残らないと自分は思っている。