苦しみと悦び

 お釈迦様は「人生は一切苦だ」といったらしいが、人間は「人生苦」などという抽象的なもので深く悩むことはできない。彼には具体的な苦しみの訳があったはずだ。それがなんだったのか、いろいろな人がいろいろな説を吐いているが、今に至ってはそれはどうでもいい話で、

重要なのはお釈迦様が自らの個人的な悩みを普遍的な苦しみに昇華し「苦痛に満ちている」ということを人生のベースに据えそのビジョンが多くの人の精神を救った事実だ。

なぜ人生を苦だと捉えることが人を救うかというと泥の中に咲く蓮の花のように、苦痛の中にあってこそ稀に訪れる悦びが映えるからだ。

逆に人生のベースを「悦びに満ちている」としたら、どうなるだろうか。その中で生じるほんの少しの不如意や苦痛でも、耐えがたくなるだろう。人の心は真っ白な紙に落ちた一滴の汚れに、始終さいなまれることになる。

先日、子供に「なぜ影というものがあるのか」と質問された。影があるというより、世の中の常態が影であり、光があるほうがよほど珍しいのだ、という意味のことを話したら、子供は驚いていた。だからこの場合、「なぜ、光というものがあるのか」という聞き方の方が当を得ているのだと。


しかし子供にとっては、この世は光に満ちていて影は時たま現れる、ぐらいの人生観がちょうどよいのかもしれない。そういうポジティブな人生観がベースに確立されてこそ、人生は苦痛に満ちているというネガティブなビジョンを受け入れる強さが生まれるのかもしれないのだから。