初恋

ダブルのスーツにポマードをきかせた七三分け、貫録十分な体躯はどこの芸達者な部長さんか、と思われそうだが歴とした「シンガー・ソングライター」である。

この文章を書くにあたりウィキペディアで「村下孝蔵」を検索してみたら、その人生のあまりの波乱万丈ぶりにびっくりした。でも、書きたいのはひとまずそのことではない。

この人は見かけによらず(いや、見かけどおりというべきか)たいそう繊細な神経のもち主で、以前「曲をつくるのは好きだが、人前で歌う苦しみには耐えられない」という意味のことを述べているのを読んだことがある。見かけやポーズはどうであれ、でしゃばり、でたがりが本性であることが基本の芸能人がこれで務まるはずはなく、この人の46歳での脳卒中による早世も、この性格が災いしたように思えてならない。

しかし、この「初恋」という稀代の名曲はその彼の突出して繊細な感受性があればこそ結実したものだ。妙な話をするようだが、男性不信に陥った女性は、この歌を繰り返し聴くと良いと思う。この歌には、男ならば普遍的に内に秘めている、純真や純情や女性賛美の心情があますところなく表現されている。

「相手が好きなれば好きになるほどアプローチできなくなる」というパラドックス、これが恋愛の苦しみの本質だ。好きになった相手に告白できるのは、当人に度胸があるからでも、ましてや真剣に想っているからでもない。相手をたいして好きでないからだ。

少し表現を換えると、相手の女性に高い聖性を見出せば見出すほど、薄汚れた未熟な自分など相手にされるはずがないという呪縛に、気持ちも体も身動きが取れなくなり、何もできなくなる。本当になにもできなくなるので、笑顔ひとつ向けることもできない。

その不自然な挙動は、ほとんど不審者のそれだが、村下孝蔵がこの「初恋」で描いているのは、まさにその哀れな普遍的な男の姿だ。男の本性がその普遍性から離れられないかぎり、「初恋」は永遠に名曲であり続けるのだろう。