海 その愛

 加山雄三は、二物も三物も持ち合わせてこの世に生まれてきた、一種の万能の天才だと思う。この人が数年前日経新聞で連載していた「私の履歴書」を読むと、若い頃から、沸騰する好奇心をバネに、鋭敏な頭脳と尖った才能を遺憾なく発揮してきたことがよく判る。

とくに驚くのは本職の音楽の才能である。この人は少年時代に、レコードで聞いた経験しかないショパンの「ポロネーズ」という曲を、すらすら弾いたという。

この人は、容姿がそこそこだったら、もっと音楽に専念できて、より多くの名曲を残したのではなかろうか。あたら何でもできてしまうために、事業にまで手を出して大辛酸を舐めるなど、その万能ぶりがアダになった人生だともいえる。

それにしてもこの人の才能は偉大だ。とくに男のロマンを描く雄大な曲を描かせたら、この人と比肩する作曲家はいない。谷村新司だって、足元にも及ばないだろう。


海に抱かれて 男ならば
たとえ一つでも いのちあずけよう
海に抱かれて 男ならば
たとえ一度でも 嵐のりこえて
遠い国へ 行こう
海よ俺の母よ 大きなその愛よ
男のむなしさ ふところに抱き寄せて
忘れさせるのさ
やすらぎをくれるのだ
岩谷時子作詞)


この二番は、海を暗喩にした女性賛歌である。女性たちにとっては、マザコン男の甘ったれた母親崇拝にも似て、うっとおしい限りかもしれないがそれはさておき、この中に、注意深く聴く人を「おや」と思わせる奇妙な一節がある。それは「男のむなしさ」という部分である。

ここまでさんざん男の雄大なロマンを謳ってきたきたのに、ここにきて一転、「男の人生って虚しい」とはいったいどういうことなのだろうか。けれどもこの「虚しさ」は、じつは男ならば誰しもが、多かれ少なかれ心の中に抱いている、普遍的な人生観なのだ。この感覚を表現するのはとても難しいので、プロの文章家の助けを借りることにする。

「女というのは愛に全身をゆだねて子を生み子を育てるという、ただそれを思うだけでも生命の粘液が匂い立つのを感ずるほどに人生に密着した存在である。男は、昆虫のオスが昆虫の生態の中ではかない役割でしかないように、人間においても多分に女よりも多分に希薄な人生をしか生きられず、その意味において流れに浮遊してゆく根無し草というにちかい」(司馬遼太郎

・・・これだ、まさにこれだ。

結局男というものは、世間や社会や会社でいいようにから騒ぎをしているだけで、何一つ産み出さず、残さず、あの世に去っていく虚しい存在なのだ。いや、そうではないという反論はあろうが、どういう角度から見るにせよ、どこまでもこの虚しさはついて回る。これは男の宿痾のようなもので、この感覚がない男なぞ、男の風上にも置けぬと自分は思っている。

それにしても、これを作詞した岩谷時子は女性である(はず)。にもかかわらず、なんでこういうことがわかるのか。つくづく作詞家、詩人という人たちは、空恐ろしい人種である。

なお、加山雄三は往年の名優・上原謙の息子だが、もちろん彼は、親の七光が無くても芸能人として成功できるルックスと才能をもってた。だが、そのそも芸能界に飛び込むにあたって、父親がいた社会の空気を子どもの時分から肌で知っていたことが大きな誘因になったことは、彼自身も否定していない。

才能が有っても、自分でハードルを高くしすぎてその世界に飛び込ぶことを躊躇してしまう「一世」がはまりがちなワナから、「二世」はのびやかに開放されているということも、大きなアドバンテージだったかもしれない。