別れの予感

 かつてカラオケというのは昨今のような気楽なものではなく、ある緊張感をもって挑むべき対象であり、酒の力を借りずには歌えたものではなかった。

そもそも、人前で歌をうたうという行為には生理的欲求を公衆の面前で満たすのに似た恥ずかしさがあって、今のように、高校生が学校帰りに立ち寄ったり、ママ友たちが子供を交えて立ち入れるような世界ではなかった。

これは、かつてカラオケというものが、今のように気の置けない仲間と個室にこもって歌うものではなく、歌を選んでから数十分後に突然呼び出され、ステージにひとり置き去りにされ、見ず知らずの酔っ払いの前で歌うしくみだったことと、おそらく深い関係がある。

では、酒の力を借り、かつ、マイクを持つ手を震わせずにはおれないカラオケ観と、部活動の延長のようなノリで軽やかに歌い飛ばすカラオケ観のどちらが幸せ(?)かというと、これが一概に判ぜられない。

目の前の恐怖や緊張を通過することなくして、真の安らぎや愉楽は味わえないようなしくみになっているのが人生の面白いところで、それを通過しない、あるいはそこから逃げたご都合主義の楽しみは薄甘いレジャーにとどまり、深い悦びに至らないままで消沈していくのが相場である。かつてカラオケは、しびれるような緊張とその引き換えに得られる深い愉悦を人々に与える鉄火場だったと思う。

テレサ・テンは、こういったしびれるカラオケ観があまねく広がっていた時代に一世を風靡した歌手である。テレサ・テンの全盛期、女子大生や若いOLたちは、マイクを持つとこぞって彼女の曲を歌ったという。彼女の歌は、どんなものでもイントロが流れだすだけで「ザ・カラオケ」的な濃厚な風情がたちのぼってくる。

 それにしても、「別れの予感」とは、なんと秀逸なタイトルだろう。恋愛は、それを得ることによって人を強くし、それを失うことを恐れることによって人を弱くする。恋愛の頂では、人はその強さと弱さの狭間で揺れ動いているが、その緻密なニュアンスを「別れの予感」という、具体的な、平易な言葉で見事に表現してしまうプロの作詞家というのは、なんとすごい人たちであろうか。