ためらい

 
 最近、ゆうに五十は越えたかと思われる中高年同士のカップルが、手をつないだり腕を組んでいるのをよく見かける。自分にはこれが、自身が中年なのをさておき、とても薄汚い光景に見える。

「中高年は恋愛するな」というわけではない。ただ、若者の恋愛と違い、その景観的価値が決定的に劣化しているのだから、公衆の面前では露出しないのが作法なのではないか。そもそも、失われた青春を遅まきながら貪っているようないじましさもかなりみじめったらしく、正直なところ正視がつらいものがある。

 男女の恋愛という花は、その究極の目的において生殖によって子孫を残すという実につなげるものなのだから、本質的に血気盛んな若い人々のものなのである。実の生らない造花のような中高年の恋愛行動は、社会の視線から遠い場所でおこなわれるべきものであり、逆に、そうであるからこそ、その悦びもいや増すというものではなかろうか。

なお、中年以降の恋愛描写はシャンソンの幾多の名曲を生んでいるとおり切実な抒情も豊富に備えており、それ自体を否定するものではない。ただ、シャンソンでは、すくなくとも中年のカップルが、公衆の面前で手をつなぐような臆面の無さは描いていないことは確かである。

手をつなぐほど若くないから
あなたのシャツのひじのあたりをつまんで歩いていたの
道行くひととすれ違うたび
二人いつから付き合っている仲に見られるかしら

中年男女が、「自分たちはもはや恋愛適齢期をすぎた」という引け目を持ちつつ、道ならぬ秘め事に耽溺していくという話ならば、十分に美しい文学であり詩でもある。この松任谷由実の名曲は、まさにそこを狙ったものだ。

わたしはもうすぐ 不幸になりそう
一緒の時間が あまりに楽しく
はやく過ぎるから

このあたりの、幸福の絶頂で不幸を想起する可憐な心理の描写は、テレサ・テンの「別れの予感」とも通底する。幸福の中に潜む不幸の予兆、不幸の中に潜む幸福の萌芽、その機微をえがくのがアーティストの重要な役割の一つである。

なお、この歌をとりあげるにあたり、松任谷由実自身が歌っているものを探したのだが、残念ながら見当たらなかった。それにしても、萩尾みどりが歌を歌っていたとは・・・。