情けない男

 ある日、都内の喫茶店で長時間粘っていたとき、隣の席に座っていたカップルが二人で温泉旅行に行く計画を延々と話し合っていたのを聞いていたことがある。

男の方が旅行の概要をあらかじめプランニングしてきて、女にプレゼンテーションする形式で話し合いが進んでいたのだが、女は、男が見立ててきた場所や計画についてことごとく注文をつけ、いちいち計画を覆していた。

会話を盗み聞いていて浮き彫りになったのは、女の温泉旅行経験の豊富さと、男のそれの貧弱さである。

これほどに旅行に対する知見に差があっては、対等な打ち合わせは成立しまいと思えるほどの大差で、あまりの圧倒されぶりに男がかわいそうになってしまった。

とはいえ、この男性がとくに「情けない」男だったわけではない。現代においては、女性のほうが旅行経験が必然的に豊富になる構造的な理由が存在するのだ。

男の場合、家族と行動を共にしなくなってから旅行に行く機会といえば、「一人旅」をするか、「恋人と旅行」するかに限定される。一方、女性はそれに「同性同士の旅行」が加わる。ここで、経験に圧倒的な差が出る。男の場合も同性同士で旅行に行くことは皆無ではないが、女性の場合と比べれば圧倒的にレアケースだろう。

つまり、男性は「同性同士の旅行」というケースがほとんど無い分だけ、女性よりもその経験が貧弱になるという構造があるのだ。

これはじつは旅行だけにいえることはない。映画や演劇鑑賞など文化的経験全般においても、同性との連帯行動の社会からの容認され度合が、女性と男性とでは圧倒的な差があり、その差はそのまま様々な経験値の差によって顕れている。そんなわけで、現代の日本においては、「物知り女と、無知な男」という組み合わせが拡大再生産されていくという仕組みになっているのだ。

かつて、世間知や同時代情報においては、男性の方が女性より圧倒的に優位な時代があった。それは、「男は外に出て仕事をし、女は家庭を守る」という性によるドメインが区切られていた時代の産物であって、現在のように、パブリックにおいて男性と女性がほぼ対等な社会経験がある時代においては、差がつくのはプライベートにおける行動の幅と深さである。

そこにおいて、女性は、「同性との連帯行動が社会的に容認されている」という理由によって、着実に男性に差をつけている。では、なぜ(一定以上の年齢の)男性は、プライベートで同性と行動を共にしないのだろうか。

その理由必ずしも明らかではないが、男社会においては、仕事のような公的な場においては同性で連帯行動するが、プライベートまでイイトシこいて同性とツルんで行動するのを潔しとしない古風な心理的呪縛(男のプライド?)があることはほぼ確実である。

さらにいえば、男同士でつるんで遊んでいる風景は、いかにもモテない野郎同士が傷口を舐めあっているような風景に見られがちだからではないだろうか。

この雄々しい矜持、あるいはチンケな見栄ゆえに、結果、無知蒙昧な「情けない男」が生産されてゆのだ。かくいう自分は、プライドも見栄もないのか、実は何度も男同士で旅行に行ったり、演劇を見にいったりしたことがある。だからといって特に文化的知見が他の男性より余計にあるわけでもないところは内心忸怩たるものがあるが、

こういった同性同士の連帯行動の楽しみと得られる利益を、女性だけに独占的に享受させておくのは惜しい気もするのだが、社会の空気というものは恐ろしいもので、これに抗することができないでいるのが男の現状ではある。

なお余談だが、くだんのカップルの打ち合わせにおいて、男性が個室露天風呂付きの部屋を女性に提案してあっさり却下されていたシーンが、もっとも、情けなく、憐れむべき風景であった。