虚と実(上)

自分の母親が、テレビにうつっているプロテニスの試合を見ながら「テニスは人のいないところに打ちあうズルいスポーツだからいやだ」といったのを聞いたことがある。

そういったあと、「それにひきかえ、剣道は正々堂々と相手に立ち向かっていくからいい」と、かつてわれわれ息子たちに強制的に始めさせた武道を礼賛した。

 この認識は残念ながらが間違っていた。剣道にしたところで、つまるところ相手の空いているところを打つゲームなのだ。ただ、それがテニスほど露骨に観客の目にうつらないだけだ。

 剣道の場合、物理的に相手の空いている頭や腕や胴まわりを叩くというよりも、もう少し踏み込んで書くと、相手が気を抜いたところを気を入れて攻める、あるいは、相手が気を入れて攻めてきたところをハグラかす、あるいは、相手の嫌がることをしてやる気を殺ぐ、といった、つまりは、「相手の虚を、実を持って叩く」ことの成否が勝負を分ける

見ようによっては、テニス並みかそれ以上の狡猾さがものをいう競技なのである。

 剣道の世界では、基本に忠実な折り目正しい剣道を「正剣」、乱れた変則的な体さばきのそれを「変剣」と呼ぶが、全日本選手権六度制覇した宮崎正裕という人は、高校時代から変剣で知られ、対戦相手はその不規則で突拍子もない技の連発にすっかりペースを乱し、かれの術中にはまりこんで敗れていった。

 とはいえ、薄っぺらい攪乱戦法が通用するほどトップレベルの剣道は甘い世界ではなく、それはあくまで確固たる自力を備えた上での個性、あるいは戦術としての変剣ではあったのだが、彼の剣道観が、「お互いの持てる力を十分発揮しあった力対力の真っ向勝負」という真っ当で美しい理想に燃えたものではなかったことだけは、確かである。

 ゲームの流れを自分に引き寄せ、相手に「自分の剣道」をさせないことが、勝利を得る要諦だという確信が、宮崎選手にはおそらくあった。「どうも自分のペースで戦えていない」という苦痛と、「このままでは勝てる気がしない」という恐怖が敵の頭の中に充満してきたら、戦いは勝ったも同然である。

こういった内部事情は、剣道だけでなく、(ゴルフやアーチェリーなど)物を相手にしたスポーツ以外の、あらゆる対人競技においておそらく同様である。

球を媒介とした野球でも、究極的には投手と打者の虚実をないまぜにした騙しあいスカしあいスレスレの(というか、そのもの)の一種の心理ゲームであり、「正々堂々の真っ向勝負」など、せいぜいオールスターゲームのような余興空間でしか演じられることがないものである。

スポーツにおいて、勝負の本質とは一般的にそのようなものだ。「お互いが自分の力を出し切った真っ向勝負」は絵空事、といって悪ければ、万に一つの確率で演じられる美しい奇跡に過ぎないのだ・・・

・・・とは、じつはそうとも言い切れないのである。そして、ここからが自分が本当に言いたいことなのだが、息切れしてぎたのでいったんここで中断します。