虚と実(下)

「人生とは、総合格闘技かプロレスか」ということを以前考えたことがある。

人生の真相は、弱肉強食の適者生存つまりは総合格闘技であり、戦いを装った約束事の世界であるプロレスは偽りの世界であり人生の真相たりえない、というのが一般的な認識だろうと思う。

しかし、総合格闘技がすっかり下火になり、プロレスが生き長らえている(かつての隆盛とは比べるべくもないが)現状は、人生の真相というものにある一つに示唆を与えているように自分には思える。

かつてアントニオ猪木がこんなことを言っているのを本で読んだことがある。「だからプロレスは八百長だと誤解されると困るんだが、自分は相手の良さを十分に引き出したうえで、それ以上の力を発揮して勝つことを目指している」と。

これができるのは、彼我の間に、ある程度の実力差がある場合のみに限られるように思われがちだが、じつはそうではなく、ある一定以上の実力を備えたスポーツ選手たちが共通して到達する一種の境地であり、矜持でもある。

つまり、お互いの実力を存分に引き出しあったゾーンの中で勝負をつけたい、という欲求を双方が持った時には、戦う者同士が一種の協力関係になり、奇妙な連帯意識さえ持つことがあり得るのである。

よく知られている例では、ロサンゼルスオリンピックの柔道無差別級で、山下選手のケガをしていた足を責めなかったラシュワン選手の話がある。

この場合、相手の弱点という「虚」を突くという勝負の常套手段をとらなかったことが「武士道精神」だということで、ラシュワン選手の振る舞いがもてはやされたが、これは何も武士道などという大げさなものを持ち出すまでもなく、一流のスポーツ選手ならばある程度共有している価値観なのだ。それは、

「相手の弱点をつくのはプライドが許さない」というものである。

昭和四十六年九月十六日の巨人阪神戦で、巨人の王貞治が、阪神江夏豊から放った本塁打は、王の公式戦での868本のホームランのうち、もっとも思い出深いものだったという。

そのとき、王は不調のどん底にあり、かねてから苦手にしていた外角球に手も足も出ない状態だった。得点は2対0で阪神がリード。九回表ツーアウト二三塁の一打同点、ホームランが出れば一気に逆転という場面。ピッチャー、バッター双方にとって、これ以上ない最高の見せ場である。
 
このとき江夏投手は、こんなことを考えていたのだという。「あのときね、外角に投げる気にはどうしてもならなかった。王さんの手が出るコース、そこへ自分の最高の球を投げ込みたかった。それが、ライバルへの礼儀だと思った」

江夏は、カウントツースリーから王の得意とする内角に直球を投げ込み、ホームランを打たれる。

対戦相手が存分に力を発揮できる場所で勝負し、その上で、実力でねじ伏せる。これは「ライバルに対する礼儀」という美しい話である以前に、これ以上の快感を選手にもたらすものはなく、だからそうしたいんだ、という欲求が抑えられないのである。

では、金メダルを逃したラシュワン、ホームランを打たれた江夏の両選手は、敗れたのち、なまじ冷酷な勝負師に徹しなかった自分の甘さを悔いたであろうか、おそらく、そんな気分は微塵もなかった。

相手の虚を自分の実を持って突くのではなく、実と実の勝負を挑み、そのゾーンの中で最高の相手とまみえた満足感と、爽快感だけが残っていたのに違いないと思う。

この傾向が進むと、もはや勝負をしていながら勝敗などどうでもよくなり、ただ戦いと称した高度な肉体と精神の戯れの中で耽溺するという状態になる。そしてそれが、スポーツや武道における、最高の楽しみであり、喜びなのである。

(少し脱線すると、合気道はまさにそこを目指している武道だと思うが、しかし、そういった境地はそれ自体を目指して形成されるものではなく、真剣勝負の中で結果として現出するものであるから、逆説的な言い方になるが、勝敗を超越するには勝敗が必要なのであり、最初から勝敗を融解させてしまっている合気道では、その境地まで行くのはおそらく無理だろうと思う)

なお、戦いつつ相手の力を引出し自分の能力も発揮するプロレスは、相手の弱点を突き徹底的に痛めつける総合格闘技より、人生の真相により近い。それは、自然界が、ダーウィン式の弱肉強食・適者生存よりも、今西錦司流の共棲と棲み分けで成り立っている事情や、古くは近江商人の言う「三方よし」や、昨今で言う「WIN-WINの関係」を目指すビジネス社会の実相にも似ていると思う。