理由

理由という言葉には、

・現象のしくみ、成り立ち
・現象の存在意義、目的

という、二通りの概念がある。例えば「雨が降る理由」は、

「地上の水が蒸発して冷やされて落ちてくるから」という現象のしくみから説明するルートと

「生き物の水分を供給するため」という現象の存在意義や目的から説明するそれとがある。

子どもに「理由」を問われた時は、大人はそのいずれか説明しやすいルートを選べばよい。

しかし、この二つの「理由」の意味するところは明確に違う。例えば英語では前者をreason、後者をpurposeと言葉を変えて概念をはっきり区切っている。そして子供たちは大人がこの二つを狡猾に使い分けていることを、その鋭い知的嗅覚を働かせておそらく気づいている。

しかし、その違和感を表明するだけの表現手段を持たないために、かれらは不審と不満と違和感を抱きつつも、押し黙るより仕方がない。

つまり社会的存在としての人間は、どんなに鋭敏な感性や高邁な形而上学を抱こうとも、表現の方途を持っていなければ、鬱屈して沈黙する以外ないのである。

あらゆる文学や芸術や芸能は、内容と表現の二本足で立っているが、人はともすれば内容を重視し、表現を軽んじる風がある。

しかしことの実相を注意深く眺めれば、内容は確かに利き足であろうが、表現こそが軸足であることに気がつくだろう。

利き足の自在を支えるのは、軸足の強靭である。

人間の足が利き足の反対がわの方が筋肉が太いのは、まさにその理由によるのである。