自転車

 先週の日曜日、娘とふたりで某国営公園の中をサイクリングした。

 きれいに舗装された二本の自転車みちは、芝生の中央分離帯を挟んで行き違う一方通行になっているのだが、その芝生の上で、一台の二人乗り自転車(後ろに乗っている人もペダルを漕ぐ、胴体が長い自転車)が横だおしになっており、それを四人の小学生の男の子たちがとりまいていた。どうやら自転車はチェーンが外れているらしかった。もう一台(これも二人乗り自転車)は無事だったが、友だちを置いていくわけにもいかないので、四人一緒に途方に暮れていた。

 自分は、彼らが直面している窮状に気づきながらもそのまま通り過ぎようとした。そのとき、芝生に座っていた子どもがいきなり、「すみません、チェーンのはめ方、わかりますか」と、声をかけてきた。一瞬躊躇したが、困っている子どもを助けるのは大人の義務だと思い直し(本当にそう思い直し)、ここで見捨てたら、この子たちの大人への信頼を傷つけることになるかしれないとも思って(本当にそう思って)、自転車を降りチェーンをはめるのを手伝うことにした。

 とはいえ、自分が自転車のチェーンはめをよくしていたのはせいぜい中学生ぐらいまでで、ほぼ三十年ぶりにする作業がうまくいく自信はまったくなかった。(これが薄情にもスルーしようとした最大の理由である) とりあえず、先に行ってしまっていた我が子を大声で呼び戻し、彼女が不承不承もどってくるのを待ってから、作業にとりかかった。

 二人乗り自転車のチェーンは、通常の自転車より少し複雑なギアの構造になっていて、そのしくみが最初はよくわからなかった。けれども、よくよく見て、いろいろいじっていると、どう外れており、どうはめ直したらいいかが、だんだん判ってきた。そうなると冷静になってきて、とにかく横だおしになっている自転車をスタンドで立てた方が楽に作業できることに気がついた。あせっているときは、そんな単純なことにすら気づかないものである。

 チェーンを何個分かギアの歯にはめて、ペダルを手で回す作業を何回か繰り返したが、なかなかうまくいかない。「こりゃ無理だ。押して帰れ」という言葉が喉元から出かかるのを何度か我慢していたら、ややあって、ガッチリとチェーンとギアがかみ合い、ペダルが力強く回るようになった。

 気づいてみると、素手で作業していた自分の両手は油で真っ黒になっていた。直ったのはいいが、やれやれ、この手をどうしたものか、と思っていたら、周囲をとりまいていた小学生たちから、ありがとうございます、ありがとうございます、とたいへんな勢いで礼を言われた。
 大人が相手だったら、「いえいえ、そんなたいしたことじゃないです」と頭をかくところだが、相手が子供なので「おう、気をつけて帰るんだぞ」などと鷹揚な態度で応じたのは、我ながら上出来だった。

 子供たちは、こちらを何度も振り返りながら、口々に礼を言いながら去っていった。あのとき声をかけられなかったら、見て見ぬ振りをして通り過ぎたであろうことも忘れ、自分はとてもいいことをしたという満足感でいっぱいになった。
 その夜、横で寝ていた娘が、暗やみの中で突如昼間のできごとを思いだしたらしく「お父さん、きょう自転車をなおしたよね、自転車をなおしたよね」と、興奮しながら言った。それを聞きながら、自転車のチェーンをはめ直す作業の簡単さがバレるまではせいぜい尊敬されてやろうと思った。