誤解・誤読・誤訳

 武という字は「戈(ほこ)を止める」つまり戦いの象徴である「剣」を事前抑止するという意味だと巷間いわれている。ふと、本当にそうなのかと思い、漢和辞典(白川静著「字統」)を立ち読みしてみると、戈は確かに「剣」だが止は「足跡」を意味し、武とは兵士が剣をかかげて地面に足跡をつけ(ながら行進し)ているさまをいうらしく、つまりそこには事前抑止という概念はない。

しかし、事前抑止とはまだ良質の誤訳だと思う。ひどい例では、たとえば「人」という字はお互いが支えあっているさまを表したものだといわれているが、この説は武田鉄矢金八先生がうまいこといったのが始まりらしい。

しかし、これが馬鹿にできない。

司馬遼太郎は「21世紀に生きる君たちへ」という文章の中でこんなことを書いている。「私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである」と。武田鉄矢司馬遼太郎の信奉者だが、晩年の司馬がその返礼をした・・というわけでもあるまい。

上手く作られた誤訳や誤解は、強い伝播力を持ち、いつしか真実や事実にとって代わることがある。このことは警戒すべきことなのか、受容すべきことなのか、自分には今のところよくわからない。

誤解され、誤読されっぱなしのテキストと言えば、人類史上「論語」にまさるものあるまい。論語孔子の日ごろの言行のうち、弟子たちの記憶に残っているものを後日書きとめたものだが、その発言をしたときの場面や背景の描写ぬきにただ抽象的な言辞のみが放りだされているのが大概だから、誤読されることは宿命のようなものだが、その中に、当の孔子にしてからが、古い文献を誤まって解釈しているところがある。

子のたまわく、詩三百、一言をもってこれを蔽えば、いわく「思い邪(よこしま)なし」

というのがそれである。この言葉は

詩経孔子が編纂したという伝説がある周代の詩歌集)のいいたいことを一言で言えば、『悪い思いを抱いてはならない』ということだ」という意味で、この「思い邪なし」という一節は、

思邪無
思馬斯徂

という、ある祭りの歌から引用したものだ。しかし、上記の歌における「思」は調子を整えるだけの意味を持たない助詞で、この歌は「まがることなく、馬よひたすらに走れ」と解釈すべだと、現代の研究では判明している。

しかし、孔子のころはこの歌の中にある「思」という字を助詞として使う語法が忘れられており、孔子は、「思」という言葉に「思い」という意味を持たせた誤った解釈をしたわけである。

しかし、このいきさつを紹介した中国文学者の貝塚茂樹はこう述べている。「詩の原文の誤解から出たものではありますが、詩の文学的本質を表す言葉としては、ほんとうにこれほどぴったりした、素晴らしい表現はないとわたしは感心しているのです」と。

 言葉の本質を理解し、さらに高次の価値を与えるのならば、誤解や誤読も、そう頭から否定すべきものでもない。文化の豊饒や、文明の進化においては、そういった懐の深さもたいせつな要件になるのでないか。自分には、そんなふうにも思える。