言葉の異郷

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 小林秀雄の著作を読み返していると金言が至るところに見つかって、しみじみと面白い。特に、若さゆえの力みがとれて、かといって老境の晦渋さにも入っていない、四五十代の頃のものが、論理に張りがあり、展開に美しさがあり、表現に詩的風韻があって、良いように思う。

もし現代に小林秀雄のような個性が蘇り、小林秀雄のような口ぶりで執筆や言語活動をしても、いっこうにウケないに違いない。なぜなら、「意味がわからない」から。こういうテキストを受け入れ、その価値を認めた時代の、日本の文明度の高さは、今とは比べ物にならない。

小林秀雄の作品に向かって、なぜもっと分かりやすくかけないのか、と言うことは、詩人に向かってなぜもっと言いたいことを直接書かないのか、というに等しい愚である。一般に、文章というものはある概念があって、それを言葉で写しとると思われているが、これはかなり低級な言葉の使用方法である。

先にある考えがあって、それを表現するにはこの言葉がよいか、いや、あの言葉がよいかと吟味検討するのもひとつ行き方ではあるし、自分もたいがいはその段でいくが、詩人の場合、考えと言葉(内容と表現)は同時にぞろっと出てくる。この二つは、背中とお腹、肉体と精神のように分岐不能なものだ。

政治的主張や、ビジネスの現場で、意味が通らないわかりにくい言葉を使うのは論外だが、言葉にはもう数ランク上の、高度な遣い方をぶつけあう別次元の世界があり、その言葉の異郷で君臨していたのが、小林秀雄(の言葉)である。

小林秀雄の「モオツアルト」という小論は、終戦戦後の、これから日本がどうなっていくか誰も見通せなかった混乱期に書かれたものだが、これを読んだある人が「ああ、いい文章だ。こういう文章があれば日本は大丈夫だ」といった。彼の文章は、そういうふうに当時の日本人に受け入れられていたのである。

現代に、「こういう文章があれば、日本は大丈夫だ」と読み手に思わせられる書き手はいるだろうか。自分の知る限り、ただの一人もいないと思う。誰もが、「内容を伝えるためのメッセージ手段」という最小限の用途としてしか、言葉を遣えていないと思う。