「論理国語」と「文学国語」

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                                 小林秀雄

 

 漫画や映画は高等学校までの授業では観賞することはほぼできないが、一歩学校の外に出れば、文化として隆盛し、商品として大量に流通している。文学作品も教科書に載ろうが載るまいが、読む人は読むし読まない人は読まない。また、真に文学的才能がある生徒は文学国語なぞ選択しない。

 自分は、学校時代、教科書で読んだ文学作品は、詩は大げさだったり意味不明だったりしたし、小説は前後ぶつ切りであまり面白いと思ったことはない。国語の教科書に掲載された文学者の書き物で自分の印象に残っているのは、石川啄木の文章論や夏目漱石の人生論である。これらは論説の衣装を纏いながらも、豊かな文学的香気を湛えたものであった。

論理性や文学性は、ともに文章の魅力を押し上げる重要な要素である。文章の価値はそのジャンルにあるのではない。それは、静かににせよ、激しくにせよ、如何に読む人の心を動かすかにある。古典になるような良い文学はすくなからず論理的であり、歴史を彩る優れた論文は往々にして文学的である。文学には論理性が、論文には文学性が、本質論としても「隠し味」としても、かなり重要である。

数年前小林秀雄の「鍔」という小論がセンター入試に出題されて、そのあまりの解釈のしづらさに物議をかもした。試験中にパニックになり泣き出した受験生もいたらしい。

小林秀雄の文章は、一般的に思わせぶりで判りにくいと思われている。しかし彼自身は、自分の文章を「ウナギ屋のおかみさんでも読んでいる」ことを誇りにしていた。あの大部の「本居宣長」を読み通して内容を十全に理解できるウナギ屋のおかみさんがいるとは思えない。ではなぜ「ウナギ屋のおかみさん」が小林秀雄を読んだのか。

ある小説家が、小林秀雄の文章には「電流」が流れていて、その電流の作用で書かれている内容とは全く別の物語を発想することがしばしばあった、と述懐している。「ウナギ屋のおかみさん」が小林秀雄の文章に引きつけられていたのは、その電流の作用による一種の生理的快感を味わうためだったのではないだろうか。ようは、その文章の知的な「意味」ではなく、その感覚的な「フォルム(姿)」に磁力を感じていたのである。

「意味はよくわからないが、心が揺さぶられる。」それまで音楽でしかあり得なかった感動を文章で実現した表現者、日本文学史上において小林秀雄はそう位置づけられるのではないだろうか。そして、このような文章は、文学としても、論説としても、国語の文章読解問題には、全く不向きなように自分は思う。