共同幻想が崩れるとき

 王権VSブルジョアジーの市民革命を経たあとの第2波として、資本家VS労働者の「階級闘争」が始まるのだが、この動きが共産主義国の没落で潰えたのが、結果的に「庶民を守る」哲学がキリスト教的博愛思想以外どこにもない現代に、繋がっている。

キリスト教的博愛思想とともに、永らく社会のセーフティネットの役割を果たしていたのが共同体の存在だろう。

これは日本だけではないが、近代まで人間は大抵が村落共同体(ムラ社会)に所属していて、構成員が何らかの事情によって困窮に陥った時に、村全体で支援する仕組みがあったが、それがほぼ崩壊した現代では、個々人はバラバラで困窮に向かい合い、それを救うのは行政の役目になった。

現代では行政が機能しないと困窮から抜け出せないしくみになっている。そして今「行政が機能しない」状況になり、「庶民」が困窮している。一握りの使命感のある県や市が救済に乗り出しているが、これには限界がある。なぜなら彼らには通貨発行権はないので、いずれそのための予算が払底するからである。

その役目を担っているのは、やはり「国」しかない。今、その国が全く機能しない。これはとても恐ろしいことだ。

その国の尻を叩く言論として、「今は非常時だから、国(政府&日銀)徹底的に円を刷り配分すればいい」という考え方がある。これには一理ある。日銀が発行する円に交換する国が発行する国債は、日本の場合ほぼ全量が国内で買い入れられているのだから、「政府の債務(借金)=国民の債権(貸付)」であり、いくらこの取引を膨らませようが国民にはなんの痛痒も危険もない、という理屈だが、これは本当なのだろうか。

通貨は、「これがあればモノやサービスと交換できる」という共同幻想に支えられている。通貨が、ただの金属片や紙片あるいは電子データに多くの人の目に映ってしまった瞬間、その幻影は姿を失い、通貨はその神通力を失う。言葉を換えれば、通貨幻想はその「希少価値」によって支えられており、その流通量は経済の活発化とバランスをとりながら、慎重に決められるべきものだ。

今の日本は「中央銀行の政治からの独立」という先人の知恵を土足で踏みにじっている状況下で、その現実は相当危ういものだと言える。どんなに通貨量を増やそうが、日本円の価値に永遠に揺るぎはないと、どういう根拠でいえるのだろうか。

よしんば、日本国内において「円」への共同幻想が維持され続けたとしても、地球に溢れかえる日本円への信頼を海外が維持してくれるのかを考えると、はなはだ心もとない気がする。世界はそんなお人好ぞろいなのだろうか。円の交換価値が棄損されれば、それ以降、輸出にも輸入にも弊害が出るだろう。

今は「中央銀行の独立」という先人の知恵を土足で踏みにじって誰も顧みない状態にあるが、マネーサプライが政治判断に委ねられる奇形的状況にあっても規律は意識するべきで野放図にやっていいことではない。さもなければ、ハイパーインフレなり、預金封鎖なりで、辛酸を舐めるのは私たちだ。