あやうい籠城戦

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熊本市のキャンペーンポスター


 

 熊本市が外出の自粛を「籠城」に例えたことに、個人的にはとても不吉な印象を持った。歴史上、籠城戦は戦況逼迫した局面で追い込まれる、やむにやまれぬ時間稼ぎのための最終手段であり、実際、成功したためしがないからである。

天草四郎の乱での原城攻防戦、大阪の陣、秀吉の小田原城攻めなど、結局は刃折れ矢尽きて、あるいは飢餓地獄や全軍の士気喪失に陥って、城明け渡し、炎上等々、悲惨な結末に至っている。

自分の知る限り、長篠の戦いの前哨戦で、長篠城主奥平氏武田勝頼相手に採った籠城戦がうまく行った数少ないケースだが、これも鳥居強右衛による「お味方の援軍がもうじきくる。今少しのご辛抱です」という落城寸前の命と引き換えの情報提供があったから、その希望で、籠城軍は延命することができた。

食糧、武器弾薬を貯めこんで、腰をすえて籠城だと当初は意気軒昂でも、密閉期間での待機が長期間続くと、兵糧は日々減少し、精神は淀み焦燥は高まっていく。それに加えて当然ながら敵からの銃弾や矢や砲弾が飛んできて、日々味方の犠牲者も負傷者も増え、城内ではその対応にも追われるようになる。

それでも難局にあたって、「ひとまずは身を縮めてやりすごそう。そのうちいいことあるさ」という誘惑は抑えがたいようで、例えば今川義元軍が侵攻してきたときでも、織田の重臣は「清洲籠城」で一致し、一人主戦論を唱える信長をみて「人間運の末には、知恵の鏡が曇るとはこのことか」と嘆いたという。

当時信長にどういう勝算があったのか定かではないが(実は以外と勝つ自信があったのではないか)、少なくとも籠城戦では当座いくらかの時間はしのげても、いずれジリ貧になっていく未来予想図はくっきりと頭の中に描かれていたことだろう。

こういったビジョンと行動力を目の当たりにすると、「さすが信長は天才だった」ということで安易に収めたくなるが、実は重要な要素がもうひとつあって、それは彼が当時二十七歳であり、その周りを固める重臣たちの多くは父信秀以来のベテラン揃いだったということである。

勿論、若ければいいというわけではないし、未熟さの弊害もあるのだが、少なくとも若さには二つの美質がある。一つ目は経験が乏しい分過去の成功体験や失敗体験に囚われない新鮮な発想ができることと、二つ目は「精神の勇躍」が期待できることである。

現代の状況に戻ると、へんに大局観がある人生のベテランは「危ない→引きこもり」とすぐ思考停止するが、日本国土にいる人全員が精度の高い陰陽性の検査を短いタームで定期的にできれば、引きこもるのは原則陽性の人だけでよく、陰性の人同士ならば、これまで通り仕事も遊びもしてよいことになる。

この「陰性の人たち同士で経済活動を回す」前提には、検査による現状把握が必要である。さらにこの検査体制は定期的に繰り返せるように制度設計する必要がある。今政府がもっとも力をいれなくてはならないのは、マスクを配ることでも学校を九月からにすることでもなく、この検査体制の構築だ。

経済活動が回り始めれば(それでも内需に限定したものだから余程縮小しているのだが)、助成金や手当てなどの必要性も急速になくなっていく。おそらくこのぐらいのことは官僚や政治家の多くは気づいているのだが、やれない。その理由は「精神の勇躍」がない、卑俗に言えばやる気がないからである。

なぜ精神の勇躍がないかというと、端的にいってやはり「歳をとっているから」である。経験があるだけにその枠組みの中でしか対処法を発想できないし、もし発想してもそれを実行する気力に乏しい。そんな指導層が、この前代未聞の事態に順応できないのも当然のことである。