ドローイング

足の置き方が中途半端で、初めから絵にするのは難しいことはわかっていたが、やはり難しかった。

迷いなく線を引くのは高度な技だが、できる人にとっては、明確にあるイメージ通りに手を動かすだけだから、さほど難しいことではない。(自分ができるという意味ではない)

できない人が、できない視座から、できる人を眺めるから、「難しい」ということになる。そういう意味では、世の中のことはすべて難しいともいえるし、すべてが簡単だとも言える。

ただ、いえるのは、できない人はできないことを苦痛にしか感じないが、できる人はできないことを愉しむことがある、ということだろうか。しかし、「できない」ことを愉しめるのも、この「できない」はいずれ克服できるにきまっている、という確固たる見通しがあればこそだと思う。

人物象に関しては、自分は女性を描くことが多いが、これは自分が男性だからというよりも、女性の方がモチーフとしていろいろと複雑なもの、何かと深いものがあるように、なぜか感じられるからだ。

その複雑さや深さの正体の輪郭を明らかにすることは容易ではないが、女流の画家にも女性像を描く人が多いのは、おそらくこの事情によると、自分は勝手に考えている。

この間、岸田劉生のエッセイを読んでいたら、似たようなことが書いてあった。かれも男性はモチーフとして退屈だ、というようなことを述べていた。

女性の身体象は、肥満、痩身、中肉いろいろなフォルムでもそれぞれの見栄えがあるが、男性の身体象でモチーフになり得るのは、唯一鍛え抜かれた肉体だけだ。男性がモチーフとして退屈なのは、この事実が象徴しているような気がする。