不浄といふ事

 自分が子どもの頃、家族で外食などをしたときなどに、支払いはいくらだったのか、というようなことを母親に訊くと、イヤな顔をされて「子どもはそんなことは知らなくていい」といわれるのが常だった。この言葉を聞くたびに、自分の質問は何かの禁忌に触れているか、と思ったがその正体は久しくつかめなかった。

中学生ぐらいになると、こういった質問は親の無償の行為を「値段」という数値に換算することになるので、それを嫌がっているのかな、という見当をつけたが、今して思えばこれもまだ考えが足らなかった。

母親は、「子どもがお金の話に頭を突っ込んでくること」そのものを禁じていたのである。また母親はよく「お金はいろんな人の手に渡っていて汚いから触ったあとは手をよく洗え」と言っていた。これも子どもの頃は額面通りに「百円玉や千円札にはバイ菌がたくたくさん着いているからそれを洗浄しなくてはならない」という意味にのみ捉えていたが、今にして思えば、これは「お金」がその機能性から宿命的に備えざるを得ない本質的な不浄性を指摘していた言葉でもあったのだ。

お金(貨幣)は「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」という三つの機能を持つと一般的に言われているが、自分はもっとも本質的な役割は二番目の「交換の媒介」だと思う。

貨幣が存在しない社会では、人々は物々交換で欲しいものを手に入れていた。しかし交換する二者が互いに相手が欲しいものを持っている場合はよかったが、「自分は相手の持っているものを欲しいが、相手は自分が持っているものを欲しくない」という状況が続いてしまうと、いつまでも自分が欲しいものが手には入らなくなってしまう。

この社会的不如意を解消する手段として登場したのが貨幣である。貨幣という「みんなが必ず欲しがるもの」を仮構し、それを媒介にすることによってモノやサービスの流れを効率化させたのである。

つまり、貨幣には「みんなが欲しがる」という確固たる本質を備えており、逆に言えば、その本質を備えない、つまりだれも欲しがらない貨幣はただの金属の固まりや紙切れに過ぎず、貨幣と呼ぶのに値しないということになる。このように貨幣には「社会の欲望のマトになる」ことが宿命づけられているのである。

大げさ言えば、人類は普遍的に欲望の対象になるものを禁忌、つまり「不浄なるもの」として取り扱ってきた。その代表が貨幣でありもうひとつは「性行為」である。貨幣は社会存立の基礎として、性行為は人間の再生産の起点として、ともに人間にとって欠くことができないきわめて重要なものだが、それを禁忌として隠蔽したり「取扱い注意」のラベルを貼ることにどういう意味があるのだろうか。

その答えは、もしそれらが禁忌として取り扱われなくなったらどうなるのだろう、と仮定してみると、おぼろげながら見えてくるような気がする。

おそらく両者は、欲望喚起に不可欠なある種の「神通力」を失うことになるだろう。この「神通力」を失うことの帰結がどういうものなのか迄は、自分にはよくわからないが、たとえば日本が今直面している少子化現象は、この「神通力」の低下と無関係ではないような気もする。