作品は快感の媒介である

 デザインは「シンプルさ」が高く評価されることが多いが、シンプになればなるほどマネもしやすくなるのが理の当然である。つまり「優れたデザイン」ほどまねされやすいもので、この優れたデザインの意識・無意識の相互模倣が、デザインの世界全体のレベルアップにもつながっていた。

知的財産権」とはかんたんにいえば「アイデアがマネされない権利」のことで、それ自体は説得的な存立理由が山ほどあるのだが、アイデアがマネされるということ自体がそのアイデアが優れていると他者が認めた証拠であり、ここに発想のモチベーションを見出す立場もあっても良いと思ったりもする。

つまり創造的立場にある人間には、「マネされたくない」と「マネされたい」という相反する欲求があり、どちらも文明や文化や科学の隆盛の重要な熱源になってきたのだが、前者の「マネされたくない」欲求が権利として尊重されるようになったのは、人類の文明史から観ればごく最近のことだ。

「いまやたらに流行っているあれって、もともとのアイデアはオレなんだよ。どんどんマネされて弱っちゃうよな」という、嘆いているんだか、悦んでいるんだが、自慢しているんだがわからない微妙な心理のはざまで、創造というものはなされるような気がする。

本居宣長の言葉に「姿は似せがたく意は似せ易し」というものがある。「姿」とは表現のことで、「意」とは内容のことだ。あるいは、姿を「アート」、意を「デザイン」と解しても良いと思う。

また宣長は、「意匠は見た目を即座にマネすれば済むが、芸術には深い個性や長い修練が要る」とも言っているのだと思う。

デザインとアートの境い目にはっきりしたものがあるわけではなし、結局は言葉をどう定義するかという問題に帰着するのだが、ひとつの視座として、デザインは機能と密接な関係がありどこまでも縁を切ることはできないが、アートは機能から縁を切りさらに遠く離れることが可能なものだ、というものがあるかもしれない。

「イス」というものがある。どんなイスでも、そのデザインは「人間がすわることができる」という機能から離れることができないが、もし「人間がすわることができないイス」というものが作り出されたら、それはもはやデザインではなくアートの領域だ、ということになる。

では、「人間がすわることができないイス」にどんな存在価値があるのだろうか。それは、「何となく見ていて面白い」ということになる。このあらゆる機能や理屈から離れた、プレゼンテーション不要な観賞快感を与える主体がアート(芸術)なのである。

では、鑑賞者は作品の何から正体不明の快感を得ているのだろうか。これは自分が長年とりつかれてきた思考問題で、ここであっさり開陳するのは惜しい(ようするにマネされたくない)ようなものだが、これを一言で言うと「作者の制作時の心境」ということになる。

それは、楽しんで作った作品は観る人を楽しくさせるし、気高い精神で作った作品は観る人をその気高さにまで導くし、異常な集中力で作った作品は観る人の集中力を高めるし、悦びを持って作った作品は観る人を悦ばせる。この作品を媒介にした作者と観者の心の交信が、芸術の本質なのだ。

よしんばその作品づくりに「苦心」があったとしても、その苦労の本質の部分に「苦痛」だけがあり、「悦び」が乏しければ芸術作品として成立しない。そういう作品には観る人に「快感」をもたらす力がないからだ。

この「作品=快感の媒介」論は、アートだけでなくデザインにも敷衍できる。剽窃した作品がおしなべて快感をもたらす力が弱いのは、原作者と観者の間に「剽窃者」という余計者がワンクッション挟まるせいであるとも説明できる。