欠落感とは何か

 欠落感というものは、「他人はたいてい持っているが自分は持っていない場合」と、「かつて自分は持っていたが今の自分は持っていない場合」の二種類の状況において生じる。だからこの二つが合体した「他人はたいてい持っていてかつて自分も持っていたが、今の自分は持っていない」欠落感がもっとも深甚なものになる。

欠落感とは、端的に言うと「自分は人並でない」という自意識だ。かつてある作家が「人並でないということは素晴らしいことだ。それがものを考えるバネになるからだ」と述べているのを読んだことがある。

確かに一理あるが、考えるバネを得るために、わざわざ人並以下になる人はいない。欠落感とは、成長の糧としても珍重するような生やさしいものではない。これにまともに向き合い深く悩むことは、大げさでなく死に至る病になりうる。そんなものは無いに越したことがないのだ。

欠落感の代表的なものに、まずは肉体的欠損から生じるものが挙げられる。先日あるテレビ番組で精巧な義肢を作る職人を紹介していた。自分はこれをみて、欠落を抱えた人生をフォローする仕事は、この世でもっとも崇高な営為のうちの一つだ、という感をもった。ただ、誤解されるのを覚悟でいえば、肉体的欠損という目に見える状態を義肢という物体で補填することはわかりやすく、ある意味対処しやすくもある。

手ごわいのは、精神的な欠落感である。これは、肉体的欠損のようにはた目にそれと見えないゆえに他者の目から逃れることができるが、その反面、「はた目に見えない」ことが他者の無理解を招き、ひいては当人を苦しめることもある。リストカットなどの自傷行為は多くの場合、見えない精神的欠落を、目に見える肉体の傷というかたちに顕現在化することによって、他者からの同情と慰安を呼び寄せ、精神の欠落を埋めようという無意識の企図があるのではないか。