「明治神宮」という幻想

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惨き夏昭和は遠くなりにけり

 今年、酷暑のある一日に、初めて明治神宮に行った。明治神宮明治天皇昭憲皇太后を祀っているのだが、ここには明治天皇の御陵(お墓)はない。明治天皇の御陵は京都にある。では明治神宮には誰が、あるいは何が、あるのだろうか。

明治神宮に存在するのは、神になった明治天皇だろうか、明治天皇とは遊離した得体のしれない何者かだろうか。あるいは、空、つまり「何もない」のだろうか。

自分の考えによると、おそらく答えは三番目「何もない」である。明治神宮の初詣客は何に対しても祈ってはいない、言葉を換えると「空」に対して祈っているのである。

初詣客が明治神宮に押し掛ける理由は、「たくさんの人が押し掛けるから」であり、明治神宮の本殿向かって祈るのは、「他のみんなが祈っているから」である。明治神宮にある何かを視たり、聴いたりするためではない。

実は、これが宗教の本質である。ある宗教において、信仰の対象、たとえば「神」が尊貴な存在たりえるのは、社会的にあるいは共同体内部で、「この神は尊貴な存在である」という共通認識があるからだ。

共通認識さえ存在していれば、その対象が、木製だろうが金属製だろうが、紙に描いた絵だろうが、石に彫りつけた線だろうが、物質的に何を素材にしていようが関係がないし、さらにいえば、物体として存在する必要すらない。

この事情は、「お金」も同様だ。「これには皆が欲しがる価値がある」というコンセンサスだけが、お金をお金たらしめている要因であって、これさえあれば、それが物質的に、アルミ製だろうが、紙製だろうが、電子データだろうが、どうでもよい。

人々が、「明治神宮には祈るに足る尊い何かある」とが信じれば、その何かは実在することになる。おとぎ話のようだが、実は、世の実在は、信仰、信頼、信用、つまりは「信」という人間の心理状態によって、存在が規定されるものが沢山ある。

例えば、家族、会社、学校、政府、国家、組織などがそうだ。つまり、個々人に巨大な影響力によって存在し、抗し難い呪縛を与えるものののことごとくが、実は人間の心理状態の産物なのである。

ただし、この心理状態は、個々人が、手前勝手なイメージをバラバラに持っている範囲では、何の力もない。しかし、そのイメージが多くの人間の頭脳の中で近似した像を結ぶようになると、たちまち強力なパワーを持ち、個人に甚大な作用を及ぼすようになる。

これは、「共同幻想だ」と簡単に切り捨ててしまうにはあまりに強力な存在である。たとえ自分ひとりが切り捨てた気分になったところで、他人が皆それを信じていれば多勢に無勢、だれしもが社会的存在である以上、影響の埒外で棲息することは不可能である。

例えば、「お金なんか幻想にすぎない」と言い張って商品を持ち去ろうとすれば警察に突き出されるし、「国家なんか幻想に過ぎない」といってパスポートを持たずに外国に行こうとしても、入管で足止めを食らうことになる。

つまり、人間として社会生活するには、「幻想」通り合うことが必要になる。

やみくもに幻想に抵抗するのは得策ではなく、幻想を逆手にとって自分に利益誘導するのが、人としての利口な立ち回りだといえよう。

実は、このことに痛烈に気づいているのが宗教の教祖である。逆説的な書き方になるが、宗教の教団は、幹部に近い階級ほど信仰心が薄く、教祖にいたっては、その教義も本尊もまったく信じていない。同様に、お金の価値を一番信じていないのは、その発行元である各国の中央銀行の総裁である。これら社会の奇妙な本質に気づけば、世の中の一見不可解な動きや姿の実相が、ボンヤリとでも見えてくるようになるかもしれない。