リベラル、あるいは左翼についての断章

立憲民主党の代表になった枝野氏は、民主主義の要諦をトップ・ダウン(上からの指導)よりも、ボトム・アップ(下からの押し上げ)に置いている。

組織体や、社会といった人間集団の、意思決定において、トップ・ダウンとボトム・アップのどちらがより有効かは、一概に断言できない。

枝野氏が軸足をおく「リベラル」には、ボトム・アップを重視してきた伝統があり、今回の選挙においても、それを主張しているのは、自然な流れではある。

非道いトップ・ダウンを連発している、安倍政権のとの違いを打ち出す狙いもあるだろう。

●「リベラル」という言葉には、日本では、様々な意味がある。英語の「リベラル」は、社会的自由や平等を意味する名詞「リバティ」の形容詞だから、リベラルもこの二つの意味を包含している。

●日本における、リベラルは、「国家権力から解放された、政治的な自由」と、「天皇を頂点とする、出自序列を否定した人権上の平等」を意味する。これらは、共産主義のテーゼである、労働者の資本家の搾取からの解放という「自由」と、労働者による生産手段の共有化という「平等」に、それぞれ符合しており、これが「リベラル=左翼」という図式の、ひとつの成立の根拠となっている。

●「自由と平等」は、民主主義や資本主義の基本テーゼでもあり、共産主義の専売特許ではない。それどころか、現実の共産主義は、旧東欧諸国や、現北朝鮮の例を待たず、権力闘争を勝ち抜いたトップによる独裁や、官僚体制的不平等や、国家による人権蹂躙の温床になった。

●自由と平等からもっとも遠い政治・経済形態が、共産主義である、という見立ては、現在、幅広く世界に流通している。だから、「リベラル」は、左翼の理想を象徴してはいるが、実態を顕している言葉とまではいえない。

●左翼思想は、民族主義国家主義への対立概念として、歴史に登場した。その出自はフランス革命であり、もともとは絶対王政へのカウンターバランスだった。のちにマルクス主義が説く「上部構造」は、元々は資本家ではなく王権だった。

●人類史の実態は、民族間や国家間の闘争史そのものだが、左翼思想は、そのような文化的闘争を克服するための、「文明的」調整弁として、顕れた。

それが具現化したのが、世界連邦思想や、エスペラント語運動であり、原理的には、あらゆる空間的、時間的事情を超越する、普遍的法則が、遍く時間(歴史)や空間(地球・世界)を覆っていると観る。

マルクス主義は、「人間社会には、地域性、民族性、時間的事情を超えた、普遍的な法則があり、歴史は、その法則に従って進行する」と観る。極端に言えば、個々の人間は、その法則を具現化する部品に過ぎない。「類的存在」とは、そういったマルクス主義の人間観を顕した言葉である。

●左翼は、国家間や民族間の闘争、いわゆる「戦争」は否定したが、平和主義というわけではない。左翼と右翼では、戦う相手が違うだけで、その成立の根底に闘争思想があることは通底している。

●右翼の仮想敵は、他の国家だが、左翼の仮想敵は、国家の垣根を超えた「上部構造」である。上部構造とは、人間社会を遍く政治的・経済的に支配している特権階級であり、具体的には政治的には「王権」であり、経済的には「資本家」を指す。左翼は上部構造と戦うために国家間の垣根を超えた、グローバルな連帯を志向する。

●右翼はローカルを志向し、左翼はグローバルを志向する。世界に向かって、右翼は、国家間の分断を旨とするが、左翼は、下部構造の連帯を叫ぶ。右翼は、国家間の縦割りで闘争するが、左翼は、地球横断的に闘争する。この、左翼的思考を象徴しているスローガンが、「万国の労働者は団結せよ」であり、「インターナショナル」であり、「世界同時革命」である。

●右翼的闘争、つまり国家間の戦争や、民族間の喧嘩が繰り返されてきたが、本当の意味での、左翼的闘争が実行されたことは、歴史上、皆無である。連合赤軍などによる破壊行動は、それをトリガーにした「世界同時革命」を目的としていたが、そのすべてが不発に終わっている。もともと、弾など込められていなかったのだが。

●かつて、「世界は一家、人類は皆兄弟」という言葉があった。これは、右翼の首魁であった、笹川良一氏が主宰する団体の標語だが、こういったスタンスは、元来は、左翼的なものである。

●日本風「左翼」には、唯物論や、マルキシズムや、グローバリズムの信奉者とは、別の顔がある。これが、しばしば「サヨク」と表記される側面で、この場合の左翼は、ライフスタイルや、人生哲学、カルチャー的な色彩までを包含した、幅広い概念になる。

マルクスの著作には、「共産主義者は、ヒッピーであるべきだ」などとは、只の一行も書かれていないはずだが、では左翼と「サヨク的なもの」はどう関係しているか。そのあたりを考えるときに、浮かび上がるキーワードが、無政府主義アナーキズム)である。

共産主義者イコール無政府主義者ではないが、両者は、支配層からの、経済的搾取や政治的抑圧から自由になった理想郷を想定しているというところで、通底しているところがある。そもそも、もっとも過激な共産主義アナーキズムに転ずる、という見立ても存在する。

●現実の共産主義国家は、「無政府」どころか国家全体が政府であり、国民全員が役人、つまり官僚機構の構成部品であるかのような、硬直した抑圧システムになってしまったが、気分としての共産主義は、アナーキーな無軌道さと裏側で手を結んでいるのである。

●日本に、マルクスの思想が初めて入ってきたのは、明治末期から大正初期にかけてで、当時においても、共産主義思想と無政府主義は、着かず離れずの関係であったが、当時の無政府主義に存していたのは、後世のような放埒や無軌道の許容ではなく、「自主」や「自律」への信頼だった。

●人間の自主や自律に任せておけば、政府の上からのコントロールや、利害調整がなくても、社会はうまく回って行くものだ、という無政府主義の考え方は、資本主義の根本原理である「神の見えざる手」へ委ねる心理と近いものがある。約めて言えば、無政府主義は、共産主義とも資本主義とも近似していると言える。

共産主義は政府が巨大化する体制だが、極大化がきわまり、国家全体が政府になれば、逆に政府という概念が消滅し、結果的に「無政府」になる。たとえば、黄色一色で塗り込められた部屋で生活する人は、「色」という概念を見失い、実感的には「無色」の部屋に居るのと変わらなくなるように。

●政治経済体制としての、共産主義無政府主義と資本主義は、ある部分では反発しあい、ある部分では考え方を共有しあったりしながら、共存した期間がある。

●後年共産主義から「転向」し、労作「大東亜戦争肯定論」を書くことになる、明治三十年代生まれの林房雄は、昭和初年に、マルキシストになるときに、酒も煙草もやめた。この一事が象徴するように、かつて左翼になることは、ひとつの宗教に入信することにも似た、古風さがあった。

共産主義の底流には、上部構造の抑圧から、下部構造を解放するという観点での「博愛」思想、現代風に言えば人権思想があり、もともとキリスト教の博愛思想との親和性がある。

マルクスは、その著作の中で、「当たり前のことが当たり前になる社会を」という意味のことを述べているが、ここマルクスがイメージしている当たり前のこととは、当然ながら、永くヨーロッパの精神的基底でありつづけてきた、キリスト教的なモラルが含まれていたことだろう。宗教を否定したマルクス主義が、そのことを認めることはありえないが。

●大正期に萌芽し、戦時中に官憲によって、徹底的に弾圧された日本の左翼が、息を吹き返したのが、敗戦後である。このときの左翼思想は、戦前の「超国家主義」あるいは「軍国主義」と対比する形で、「戦後民主主義」と呼ばれている。

●「戦後民主主義」という思潮は、昭和二十年から三十年までは、一部の狂信的右翼団体新興宗教を別にすれば、自民党から共産党まで、ほぼ日本人すべてのマインドに寄り添っていた。とにかく、共産党から自民党まで、日本の政治思潮は、すべて「戦後民主主義者」だった時期が、昭和三十年代まで続いた。

●「戦後民主主義」という、この万人を飲み込む同調機運が生じたのは、いうまでもなく、日本人にとって「軍国主義」や「超国家主義」がもたらした(とされる)戦争の惨禍や、戦時生活の抑圧が、あまりにも過酷だったからである。

●軍部が崩壊し、「戦時体制を支えた」政界や財界の指導者層が、占領軍(進駐軍)によって一斉に公職追放(いわゆるパージ)されたことにより、人々は天空が開けたような開放感を味わった。圧力機構が、頭上から取り去られた、時代の開放感を象徴する言葉が「戦後民主主義」であった。

●「戦後民主主義」と「軍国主義」は、対照語として共に戦後に発明されたものである。

●戦後における「リベラリズム」は、この「戦後民主主義」を絶対善とする思想的立場を指すようになった。しかし、昭和三十年代後半から四十年代にかけて、戦争の生傷が一定程度癒え、経済の高度成長が始まり、物質生活が豊かになると、戦後民主主義の価値を絶対視せず、客観的に、再検討する動きが出てきた。

戦後民主主義の立場は、日本史を支配層(上部構造)の血塗られた抑圧の歴史とみなし、それは戦前・戦中の軍国主義によって頂点を迎えたが、それが破裂し崩壊した敗戦によって、ようやく日本人は解放されたのだ、という歴史観を持つ。しかし、そういった一種の暗黒史観の妥当性を疑問視し、再検討する動きが出てきた。

●飛ぶ鳥を落とす勢いだった戦後民主主義思潮が淀みを見せた、昭和四十年代の空気を象徴した出来事のひとつに、当時流行作家だった司馬遼太郎による「坂の上の雲」の新聞連載がある。

●学徒出陣で徴兵され、中国大陸で戦車兵となり軍隊生活の辛酸を舐め、かろうじて生還した司馬遼太郎にとって、日本人の他民族への狭量さと、支配層の愚劣ぶりは怨嗟の対象に他ならなかった。

司馬遼太郎は、日本人そして日本の指導者層は、当時の「戦後民主主義者」たちが説くように、日本全史を通じて恒常的に愚かであり続けたのかを再検討し、その回答を小説という形で世に問うたのである。

●彼が出した結論は「日本人は通史ではなかなか偉かったが、昭和初期から敗戦までの軍人が支配した暗黒時代だけが、魔術にかかったように愚劣だった」である。

●世に言う「司馬史観」は、日本人の歴史的行跡やポテンシャルを高く評価し、「敗戦で傷ついた民族の誇りを回復した」という意味で右側の支持を得て、一方、昭和の軍国主義を全否定し戦後民主義を肯定したという意味では、左側の支持を得た。

司馬遼太郎ほど、その著述において、政治的あるいは思想的バランスをとることに腐心し、それに成功した作家はいない。

●彼は、視野の広いグローバリストである坂本龍馬と、視野狭窄したローカリストである土方歳三を、同時並行して新聞連載で描くという離れ業をやってのけた。

●因襲から脱し、相対的な合理性を旨として行動する颯爽さと、絶対的で不合理な、古風な価値観に殉ずる美しさは、ともに、男性’(あるいは人間)の魅力の構成する巨大な要素であるという意味では、同位である。

●昭和四十年代に、司馬遼太郎が、この巨大な魅力を有する、坂本龍馬土方歳三という二人を描き、喝采を浴びた背景には、当時の日本人には、この合理性を希求するリアリズムと、不合理を懐かしむロマンティシズムが、複雑に交錯していたという事情があったのである。

司馬遼太郎は、マルクス主義史観や皇国史観といった、出来あいの歴史的立場ではなく、「裸眼」で、あるいは「手掘り」で、歴史事実を観察し、掘削し、それらの素材に、魔術のように絶妙の言辞的あんばいを施して、読者に提供した。そしてその調理と味つけに、右方面も左方面も堪能し、いたく満足したのである。

司馬遼太郎の思想的スタンスから、後世の人間が、ある種の日和見主義を読みとるのは容易い。しかし、当時、彼の小説や評論が、国民の熱狂的支持を得た背景には、敗戦の辛酸とその後の高度成長を享受していた多くの国民と思想的スタンスを共有していた、という動かせない事実がある。

司馬遼太郎が精力的に活躍していた頃、左翼運動の暴力化や、醜い仲間割れが露呈しはじめ、「平和国家」ソ連による、同盟国への有無を言わさぬ軍事力発動などが、左翼・共産主義への疑念と、リベラリズムへの幻滅を招きはじめていた。

●戦後の左翼には、思想的流行つまり最先端の若者ファッションだった面がある。当時「ノンポリノンポリシー=政治的無党派)」という言葉が世に喧伝されたが、この言葉が、真に指し示しているのは、左翼という「流行」に乗り遅れた感度の低い人間への軽蔑である。

●あらゆる流行には、「眉をひそめる」動きがあらわれるものであり、その拡大が「流行」の息の根を止める先導役にもなる。左翼ムーブメントも例外ではない。

●左翼が、時代の第一線からの退場したのには、遠因と近因がある。遠因は、「高度経済成長」という資本主義の勃興による、マルクス主義経済の相対的退潮であり、近因は、学生運動の虚妄と挫折、連合赤軍をはじめとする過激派の、市井の良識との、決定的な乖離である。

●先に述べたように、左翼運動とは、共産主義無政府主義の混血児の側面があるが、共産主義が思想的背骨で、無政府主義はライフスタイルを担ったとも言える。その結末として、「共産主義革命を標榜しながら、日々を自分勝手に自堕落に送る」という醜悪な人間たちが、若年層を中心に現出し、それが庶民の嫌悪感をもよおさせ、ついには左翼運動の息の根をとめたのである。(まだ伝統芸能的な保存はされてはいるが)

●「リベラル」も左翼も、めいめいが勝手な解釈のもとに、いい加減に遣い回しているうちに、すっかり、定義不能の言葉と化した。

●政治家や知識人(またはそれを自負する人々)は、軽いノリで「リベラル」あるいは「左翼」という言葉を口にする。自分が解釈こそが、常識であり、周知であると言わんばかりの、ある種の傲岸さを表情に漂わせながら。しかし、その傲岸さこそが、自分自身もその定義に自信が持てていない、なによりのあかしなのである。