体罰と暴行の間(下)

かつて体罰が当然のこととして受け止められていた組織や社会に属し、それなりの成果や効果を挙げた経験がある人たちの中には、体罰の効用を説く人が少ならずいる。そういう人の気持ちは、そういう社会で過ごした経験がある自分にはよくわかる。

しかしその成果や効果は「体罰があったから」挙げられたのか、「体罰があったにもかかわらず」挙げられたのか、の判別はなかなかつくものではない。

体罰肯定論者は、その区別をすることを怠り、とにかく成果に至るまでの通過儀礼として体罰は必要欠くべからざるものである、というところで思考停止しており、それが実際のところされた人間にどのような作用を及ぼしていたのかを、腰を据えて分析したことがない人がほとんどだと思う。

元来、体育会系(この言葉はあまり好きではないが通りがいいので遣う)の人種は、「脳味噌が筋肉でできている」と揶揄されているとおり、スポーツ的知性や、経験上知悉している上下感覚を駆使した世渡りの知恵には素晴らしいものがあるが、こいういった根本的な人間の性質に関する考察はてんで苦手で、いうまでもなく自分もご多分に漏れないのだが、これからの時代はとてもそうは言っていられないだろう。

 「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。」

・・という小林秀雄の言葉がある。体罰を受けた経験、体罰が日常的だった時代を、ノスタルジックに、そして多分に肯定的に回顧する人たちは多いが、彼らは、かつてそれが目の前の現実であった瞬間にあたりに充満していたはずの毒気をすっかり忘れ去っているだけである。

つまり、「余計な毒気」が抜かれた状態の干からびた過去の思い出を語っても、それは現実を描写したことにはならないのだ。

後輩「先輩にはいつも殴られてばかりでしたよぉ」
先輩「そうだったかなあ、ごめんごめん。だって俺だってやられてたんだから」
後輩「そうっすよね〜。じつは自分もそうとうやりましたよ」
先輩「だろ〜」
二人「あっはっはっは」

・・・体育会運動部における先輩後輩が、上記のような関係になるまで、つまり体罰の毒気が抜けるまで、少なくとも十年以上の時間が必要だ。では、その体罰の毒気の正体とはなんだろうか。自分は、その正体は「自尊心を毀損する力」だと思う。

自尊心とは、人間が社会生活を営んでいくにあたってもっとも根本的な心であり、体罰は、その人間のもっとも大切にすべき心を傷つける。どんなに軽い酒類でも、酒である以上かならずアルコール成分が含まれているように、どんなささいな体罰でも、体罰である以上は「体罰の毒気」が必ず含まれていると見るべきだ。

「夜と霧」という邦題がついた、ナチス絶滅収容所から生還した心理学者の手記がある。その中に、収容所で行われていた体罰について、著者が述べたこんな下りがある。

「殴られる肉体的苦痛は、私達大人の囚人だけでなく、懲罰を受けた子供にとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理への憤怒に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ。だから空振りに終わった殴打が、場合によっては一層苦痛だったりすることもある」

 つまり体罰による本当に深甚なダメージを受けるのは、体以上に心なのだ。体罰を受けた瞬間に心の中に沸騰する悲しみが多分に入り混じった怒涛のような怒りが、受けた側の心を容赦なく痛めつけ、弱らせる。その害悪の深刻さは、いくら強調しても強調しすぎることはないように思う。

それは必ずしも手ひどい暴力である必要はない。その行為にどういう意味が込められているかによって、石ころひとつぽつんとぶつけられても、さらにいえば片言隻句でも、人は死にたくなるぐらいの絶望に打ちひしがれることもある。

人間が人間にこういう苦痛を味わわせる根拠はいったいどこにあるのか、そんなものは、どこにもありはしないに決まっているのである。