体罰と暴行の間(中)

日本体育大学が、「反体罰・反暴力宣言」というものを発表した。

http://www.nittai.ac.jp/important/post_143.html 

自分の常識では、大学の体育会運動部(日体大の場合は学友会)は学年間序列とそれを維持するための体罰の巣窟であり、その総本山ともいえる日体大でこのような宣言が出るとは、隔世の感に堪えないものがある。

そういえば、今年の箱根駅伝日体大が制したが、主将に三年生を据えたことが学生の意識を改革し、これがひとつの勝因になったらしい。三年生が主将になる、これもこれまでの体育会運動部の常識では考えられなかったことだ。三年生の主将が四年生を殴りつたり、四年生が三年生の主将を蹴りつけたりすることはさすがにないだろうから、この現象から見ても、現在の日体大の少なくとも陸上部では、暴力がほぼ駆逐されていると考えて良いと思う。

かつて、大学の運動部では「一年奴隷、二年農民、三年天皇、四年神様」という学年間の序列関係を表する比喩があった。一見すると何でもない階段的表現のようだが、注意深い人なら、二年生と三年生の間(だけ)に、隔絶した開きがあることに気がつくだろう。

つまり、いくら体育会的序列が厳しいとはいえ、ほんとうの下級生の苦労は二年生で終わり、三年生になれば「天皇」になり、ほぼ重圧はなくなる。実質的に、運動部の中で「三年生」になるのは、学年で言うと二年生の秋、つまり秋の全日本規模の大会(かつてはインカレという言葉もあったが)が終わり四年生が引退して新チームができるときに、部内では「三年生」になる。

二年生の秋だから、入学からぼ一年半で、下級生ではなくなる。企業社会では入社してから一年半ではほぼ新入社員に等しいが、大学の運動部ではれっきとした幹部上級生として、めでたく(?)下級生をいじめる側に回ることができるのである。

こんなに安直に出世できる社会が他のどこにあるだろうか。ようするに、大学の体育会など、子ども同士の階級ごっこにすぎず、その似非階級社会を維持するための手段として、体罰や暴力やシゴキが活用されていたとみるべきなのである。

現在は、指導者が教え子に振るう体罰に焦点が当たっているが、真に根深いのは「近い世代間の体罰」つまり上級生が下級生に振るう暴力である。この「文化」も旧軍の流れをくむもので、将校が兵隊に振るう体罰よりも、階級が近い兵隊同士の体罰、つまり古参兵が新兵に振るうそれの方がよほど熾烈なものがあった。

運動部や軍隊における体罰はシゴキは、ともに、建前は「(試合や戦争に)勝つための精神や肉体を鍛えるため」だったが、実質的には組織の序列(教師と生徒の序列、上級生と下級生の序列、古参兵と新兵の序列)維持が第一の目的であり、滑稽なことに、試合に勝つこと、戦争に勝つことは二の次でさえあった。

桜宮高校の体罰による自殺事件において、「スポーツ強豪校の勝利至上主義が招いた」事件だという向きがあるが、逆である。体罰は序列維持を第一目的にし、勝利を二の次にしているから生じるものであって、勝利を第一目的にしていれば、合理的に設計された訓練メニューに効率的に取り組むことが最優先されることになり、選手を殴ったり蹴ったりする余地など本来あるはずがないのである。

つまり、運動部における体罰は、選手の競技力向上に寄与するどころか、逆に足を引っ張っているのが実態なのである。百歩ゆずって競技力向上に体罰が寄与している側面があるとすれば、体罰をテコにした恐怖によって練習への集中力が喚起されるところだが、

それにしたところで、指導者や上級生が、選手たちへの明確な競技力向上への動機付けをする能力、つまり選手の練習に前向きに取り組む意欲を鼓舞する指導力がないから、あたらムチに頼らざるをえなくなっているだけの話なのである。