手持ちイメージの超越


四谷界隈

 夜道を歩いていると、この光景を描いてみたい、と思うときがある。

しかし、暗がりで、何時間も座りこんで、あるいは立ちっぱなしで絵を描いているなど、傍目には危険人物そのものであろうし、そもそも乏しい光量の下で描いた絵は、明るいところで鑑賞したときに、ひどく違ったものに見えてしまうことは、どうしたって避けられない。

描いている時と見る時の光線の量や質で、作品の見え方まるで異なってくるのは、太陽光の下で描いた絵が電灯の下で見たときにまるで違って見えることで、自分はさんざん経験済みである。

かといって、例えばトンネル掘削の工事現場で作業員たちがかぶっているライトつきのへヘルメットのようなものを使って、暗闇で画面だけに光線をあてて絵を描いている光景も、さぞや異様なことだろう。

ゴッホなどにも、夜景や、夜の街中を描いた絵があるが、あれはどういうプロセスで描いたのだろうか。たとえば、光量の乏しい現地では、大まかなデッサンと濃淡の把握だけを済ませ、あとは昼間や電灯の下でじっくり描き込んだのだろうか。

現代では写真の助けを借りることもできるが、そんなものがなかった(あってもおいそれと使えなかった)当時の画家は、暗闇の記憶を余程鮮明に頭に刻み込む必要があっただろう。

さらにいえば、自然界では、太陽はたえず動いていて、天空で、のんびりと絵が完成するのを待っていてくれるわけではない。

例えばミレーの「晩鐘」という作品は、若い農民夫婦の一日の仕事を終えたあとの祈りを描いているが、夕暮れ時、日没は一瞬の出来事であり、その限られた時間的制約の中で、あのシーンを描ききるのは当然不可能である。だからミレーはこの絵をほぼ記憶で描いたのだ。

モーツアルトは、その作品を頭の中ですみずみまで完成させてから楽譜に落としていったので、彼は周囲の人たちとの雑談に興じながら「作曲」することもできたという。おそらくミレーの頭の中でも、それに近いことが起きているのだろう。

画家の頭の中に、はっきりとした完成のイメージがあれば、それに向けての線は必然の連続であり、色は意味の堆積になっていく。その集合体は、しばしば画家自身の手持ちのイメージを超越した姿を現出することがある。その揺るぎのなさと、揺るぎを超えた増幅が、名画を構成する一つの条件なのだろう。


ジャン・フランソワ・ミレー「晩鐘」