北朝鮮を動かす関係欲求

 例えば今をときめくピケティ氏に「あなたの本の内容を一言でいうとなんですか」という質問は「あなたの一生を一言でいうとなんですか」というのと同じぐらい無茶である。「てっとり早くわかりたい」病患者に、真実が姿を見せることはない。なぜなら「てっとり早くわかる」ところに真実などないからだ。

単純なことは単純に、複雑なことは複雑に説明するべきだ。単純なことを複雑に説明する行為には捏造が、複雑なことを単純に説明する行為には隠蔽がつきものであり、その両方には「複雑に見せて偉そうに見せたい」「単純に見せて頭よさそうに見せたい」という要らざる虚栄心が均しく隠されている。

人間は、他人から、「理解されない」ことも「理解される」ことも、等しく望んでいる。理解されてしまえばあとは雑誌のように読み捨てられるだけだし、理解されなければ共感を得られない寂しさに凍えることになるから。

つまり、他者から「見離されない」ようにするには、「理解されない」ことと「理解される」ことが両方必要であることを人々は直覚的に解かっており、その戦略として「捏造」と「隠蔽」を日々使い分けているのだ。

すべては「他者とつながっていたい」という、人間の根源的で普遍的なコミュニケーション欲求の発現である。

人間同士をつなぐものは、「愛着」や「敬意」だけではない。「憎悪」や「軽蔑」も人間同士を結びつける力があり、そのようないわばマイナスの結びつきですらも、人間のコミュニケーション欲求を満足させる力がある。

周囲にいる他者と、絶えずイザコザばかり起こしている人や国は、完全に孤立する心細さよりも、憎悪されながらも他者と関わる道を選んでいる。「他者」たちにとっては迷惑千万な話だが、当人にとっては生きるか死ぬかの瀬戸際のふるまいなのだ。

人間は、「理解されたい」「理解されたくない」「好意を持たれたい」「憎悪を持たれたい」という様々な、うらはらな感情をチャネルにして、とにかく他者とのコミュニケーションを希求している。親和すべき味方であれ、滅ぼすべき敵であれ、人間である以上、その相手は例外なくそれを望んでいる。

北朝鮮という国を、一個の生命体だと観れば、いろいろなことが見えてくる。かの国は、もはや「悪役」としてしか国際社会と交われないところまで追いつめられている。そして、その「悪役ポスト」の首座には今「イスラム国」が座ろうとしており、かの国にとっては、このままでは自分たちが忘れ去られてしまうのではないか、という危機感に駆られている。

矢継ぎ早に発するミサイル発射の狙いは、親から顧みられない子供が万引き等の悪さをして気を引く心理に通底する。彼らが本当にアメリカと戦争をするつもりならば、一発何十億円もする虎の子のミサイルを、あたら大海原にばら撒くようなことはせず、温存するだろう。彼らは彼らなりに必死なのだ。

なお、現在かの国の上層部で進行しているといわれる残忍な粛清は、一種の「自傷行為」だと観ることが出来る。彼らは自分たちの体(体制)が、もはや限界にきていることを、自分で自分の身体を傷つけ、その傷口から流れ出る血でアピールしようとしている。では彼らは誰に自らの血の色を見せようとしているのだろうか。

これは、いうまでもなくアメリカである。かの国は、幾重にも屈折した複雑な心理構造をもってして、結局アメリカに「甘え」、「救い」を求めているのだ。

このことは、おそらく甘えている北朝鮮も、甘えられているアメリカも両方気づいていないのだが、ただ、今のアメリカには北朝鮮の甘えを受け止めるだけの包容力は無い。今のアメリカは、内に外に山積する難題でお青色吐息であり、北朝鮮の「万引き」にかかわっている余裕がない。そんな状況下でこれ以上「甘え」られれば、一転して「虐待」に走るかもしれない。いいかげんにしろ、と。お前になんか関わっているヒマはないんだ、と。

その時が北朝鮮という国家が崩壊するときだ。そうなれば、シリアとは比べものにならない難民が、四方八方にばら撒かれることになり、今度こそ日本も「難民問題」から無縁ではいられない。