受け容れるべきは「少産少死」

 太古から人間社会は「多産多死」が通常だったが、近代に至り医学が一定の進歩を見せてから「多産少死」になった。これが続くと人口爆発になるから、自然の調整弁が働いて「少産少死」へと傾くようになる。

現在日本のような先進国の多くの夫婦やカップルの子供の人数が二人以下になっている大きな理由は、「いったん生まれた以上、子供は容易に死なないものだ」という認識が一般的になっているからだ。

だから出生数を単純に増やしたいのだったら、子供が容易に死ぬように乳幼児医学を近代以前のレベルまで後退させればいい。しかし、そんなことはできるわけがないし、できたとしても誰が望むだろうか。

子供の人数は「二人では少ないし、三人では多すぎる」とか「1.4では足らないので1.8まで増やすべき」などといった人為的な都合でどうなるようなものではない。極端にいえば、「少なすぎて困る」か「多すぎて困る」かのどちらかであり、大きくいえば、人類は科学文明の進歩とともに、「少なすぎて困る」ほうを選択したのだ。

子供が何人いようと、親にとってその死は等価である。これは指が十本あるからといって、一本を切り取られたときの痛みは変わらない事情に似ている。文明の進歩が実現した「少産少死」は、人間としての親の安寧に少なからず寄与している。(念のために述べておくと、これは「じゃあ、初めから子供なんかいないほうがいいじゃないか」という粗雑な議論にはつながらない)

女性に対して、少子化を改善する「子を産む主体」と、経済成長に寄与する「労働力」という二つの負担を、あまねく押しつけようとする現政府の政策はうまくいくはずがない。

鋭敏に時代を読む若い女性は、「労働力」としての期待に応えようとした先輩たちが味わった苦渋を見ているし、子供を産み育てながらフルタイムで働くスーパーウーマンたちの背中にも、ついていけないものを感じている。そういうリアリズムに生きている生身の彼女たちを、ネクタイを締めた中年男が机上でこしらえただけの空論が動かすことは、とうていできない。

そもそも、まだ生まれていない子供より、すでに生まれてきてくれた少数の子供たちを大切にする方が、はるかに重要ではないだろうか。同年代間の虐めや殺人、親からの虐待や、少年や少女の自殺の報に接するたびに、かつての日本にはあった、幼い命、若い命を宝石のように愛でる風土が損なわれてしまった現世のありさまに絶望的になる。

いま本当に重要なのは、経済的思惑から頭数を増やすことではなく、少数の命を芯から慈しむ気持ちではないだろうか。

なお、中高生の女性に「はやく子供を産まないと卵子が劣化するぞ」式の呼びかけは、セックスの奨励と受け取られかねない危うさがあるだけでなく、政策として間違っている。いまもっとも力を入れるべきなのは、「子供が欲しくても授からない」ことで悩んでいる人たちへの全面的な支援であって、人生のとば口に立った少女たちへの下品な脅しではないはずだ。