娑婆と修羅場

 北朝鮮による拉致被害者である蓮池薫さんの兄、透さんが書いた「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」を立ち読みする。

小泉首相が二度目の北朝鮮訪問から帰国し、拉致被害者の家族と対面したとき、家族会のうち数人が小泉氏を手ひどくなじり、それは政府の拉致被害者奪還に取り組むモチベーションを挫く結果になった、と透氏は見立てている。

一般論で言っても、なじられてやる気が出る人はそういないから、これは一面事実だろう。ただ、「家族」にとっては、期待が大きかっただけに落胆も大きく、それが交渉当事者である政府と総理大臣への憤りになって出たのもやむをえないところがある。

拉致被害者を二人称つまり「あなた」という視点で見ている「家族」と、三人称つまり「彼ら」という視点で見ている政府や一般国民の視点の差異は、質・量ともにおいて、決定的なものがある。

ものごとは、一人称・二人称で語る範囲においては「自分ごと」だが、三人称ではすべてが「他人ごと」になる。

この大きな溝は、「家族」がいくら声を枯らして「国民のみなさんは、拉致問題を、自分の身に起きたことだと思って取り組んでください」と言っても埋まらない。シニカルにいえば、どんなに悲惨な事件でも「しょせんは他人事」と距離を置ける冷淡さや薄情さがあればこそ、人間はうかうかと社会生活を営んでいられるのだし、さらにいえばその客観性が解決への知恵を産むこともある。

そもそも、身の周りをとりまく、不幸な人々、不運な人々の心理にいちいちシンクロしていたら、個人はいずれ発狂してしまうだろう。

このある意味「必要悪」ともいえる冷酷なギャップは、被害者が姿を消してから続く非日常と対峙し続けてきた「家族」と、ワン・オブ・ゼンの仕事として、日常感覚で問題に取り組んでいる側との「事態観」の齟齬でもある。

「家族」は修羅の境涯に居り、政府は「娑婆」の世界の住人だ。ようするに両者は「住む世界が違う」のである。しかし、だからといって、「政府は、被害者家族の思いを汲んで真剣に問題に取り組んでいない」ことではない。

他者の人生を助けたり、支えたりするのに、かならずしもその心情とシンクロすることは必要ではない。場合によっては、むやみな同調は、有害ですらある。たとえば、外科の執刀医は、これから手術する患者の不安に対し、寄り添いこそすれ、同調はしない。患者の不安な心もちが医者にまで伝染すれば、成功する手術も成功しない。

医者に求められているのは、患者の心理へ同調することではなく、患者の症状を改善させることだ。(患者心理へ同調することが症状の改善につながるのなら、話は別だが)

患者にとって、病院や手術室は修羅場だが、医者にとっては娑婆である。そして、その医者の日常感覚こそが、プロの仕事を成就させる心理的基盤でもある。

拉致問題において政府や外務省が問われるべきなのは、「いかに被害者家族と修羅場感覚を共有したか」ではなく、「いかに娑婆感覚でプロとしての成果を出したか」である。

その視点で見ると、小泉首相訪朝後の政府の拉致対策スタッフは、まるでプロとしての成果を出していない。政府スタッフの娑婆感覚が、職業的集中力ではなく、たんなる「気の緩み」にしかつながっていないように見えるから、「家族」は不満をつのらせているのだ。