効率性と合理性

ホリエモン「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151102-00000004-jct-soci

 物覚えのいい人は忘れるのも早いのと同段で、修業時代が短いと辞めるのも早くなる。修業時代を長く設定するのは、それを一生の仕事にするための必要な助走期間という気味合いがおそらくある。

たしかに寿司職人を「刺身カッター&ごはんシェイカー」だと捉えれば何年もそれを訓練するのは不合理だ。実際、回転寿司では、来日まもないような外国人でも、それどころか機械でも、それなりの形状の寿司を握る。

しかし、実際に「握る」ステータスにいたるまでに、寿司には様々な構成要素がある。それは、仕入れネットワークの構築と維持や、微妙な下ごしらえのノウハウだったりするのだが、こういうものは一朝一夕に手に入れられるものではないし、おそらく寿司のうまさの半分は、場に漂う文化の香気でもあるので、それを人間が身に沁み込ませるには一定の年季が要る。これに要する期間は、二三年ではおそらく足らない。

「文化の香気」などという得体の知れないものは犬にでも食わせておけ、と考えるのが現代の合理主義者たちのスタンスだが、もう少し言葉を精確につかうと、こういうスタンスは合理主義というより効率主義だ。効率主義は往々にして真に重要なものを釣り落とす。効率の追求は、しばしば不合理に陥り、自壊する。

モノを考えるとは合理的に考えることだ。これは常識である。ただし合理性には低次から高次への無数の段階があって、効率性は合理性の段階のうちのごく低層に位置するものだ。ホリエモンという人はそのことをおそらく知らない。

彼がそれを知らないのは、頭が悪いからではなく、幼児からそれを了解する下地を身に着ける環境になかった、つまり生まれや育ちに原因があるのだろう。この人は、世にありふれた発育不全の自己を生涯抱え続けるタイプの人間で、そういう意味では個性的でもなんでもない人だと、自分には観える。