無常といふ事

 ひさしぶりに小林秀雄の「無常といふ事」を読む。この文章を初めて読んだ(というか眺めた)のは今から三十年ぐらい前のことで、それ以来何べん読んだか知らない。この文章を読むのに費やした時間を世界文学全集の読書にあてていれば、今頃はいっぱしの文学通になっていたような・・わけはないが。

同じ文章を何べんでも読む主な理由はいつだって「意味がわからないから」だ。書いてある意味がわからなければ、わかるまで何べんでも読む破目になる。なんの深遠さも奇矯さも無い、ありきたりの話だ。

逆に、コンテンツを理解してしまえば文章には用はない。あたかも、弁当を食べ終えてしまえば器には用がなくなるように。

ただ今回の読書では、いささか手ごたえのある妄念が生じたので、以下にそれを書き残しておきたい。

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たとえば通りをゆく仲むつまじい様子のカップルは、その年齢も顔も関係性も千差万別だろうが、「仲むつまじいカップル」特有の悦びや満足に、ひとしく包まれている。これは、時代や空間や文化を越えた共通のものだ。

しかし、それぞれのカップルの有りようは、時間の経過とともに静かに、あるいは激しくその姿を変え、決してそのままの状態を保ちつづけることはない。仲を深めて生涯のつきあいになることもあるだろうし、激しい対立を経て関係が決裂したり、電池が切れて自然消滅することもある。

この「時代や空間や文化を越えた共通のもの」が「常なるもの」あるいは「不易」であり、「時間の経過とともに姿を変える」ものが「無常」あるいは「流行」である。

一人の人間は、この「常なるもの=不易」と「無常=流行」という二つの宿命の狭間で生きている。これを「宿命」と敢えて呼ぶのは、この二つは、個々人の意思での操作を許さないからである。

人生の状態はたいてい「変わってほしくてもなかなか変わらない」か、「変わってほしくなくてもどんどん変わってしまう」かの、いずれかである。

おくのほそ道の「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」や、方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という書き出しが称揚されているように、日本においては、「無常(物事の移り変わり)」をしみじみと味わう精神文化が主流であるように一般的に思われているが、じつはそんなことはない。

たとえば芭蕉は、俳句で「時の移ろい」なんぞをセンチメンタルに嘆いているわけではない。事実はまるで逆で、かれは、自然界や人間の意識やふるまいの、一瞬のきらめきを切り取っているのである。

そもそも俳句という表現形式が、その文字数の制約上「一瞬のきらめき」しか切り取ることができない仕組みになっている。日本人が、その不自由な表現形式を案出し、愛で、磨き上げてきた歴史的経緯からみても、我々の先人の視線は、「無常」と「常なるもの」に、ほぼ均しく向かっていたと考えるべきだ。

松尾芭蕉は「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」といっている。これは、ひとまず「常なるものを知らなければ事物の根本を知ることができないし、無常を知らなければ新しい発展はない」と普通に解釈しておけば済む言葉だ。

少々やっかいなのはそれにつづく「その本は一なり」という言葉だ。ようするに芭蕉は、「この二つは一見対立概念のようだが、実は同じ意味だ」と言っているのである。

これを勝手に解釈すると、これは「無常こそ、常なるものである」つまり「どんどん変転していくことが、世の中の普遍的な姿なのだ」という意味になるだろう。

これまでの理路を踏まえて整理すると、「常なるもの(普遍的なもの)」には、「一瞬のきらめき」と「無常」の2種類があるということになる。

「無常といふ事」の末尾に「現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」という言葉がある。

ここで小林秀雄は、「無常」と「常なるもの」の関係をコインの表裏のように観ており、芭蕉とは違う意味で両者を「一なり」と捉えている。

では「鎌倉時代のなま女房」が持っていて、「現代人」が見失ってしまった「常なるもの」とはいったいなんだろうか。

その答えは以下の文中にある。

「僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思ひ出しているだけだ。自分が生きている證拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつている様な時間が。(略)あの時は、実に巧みに思ひ出してゐたのではなかつたか。何を。鎌倉時代をか。さうかも知れぬ。そんな気もする」

つまり「鎌倉時代のなま女房が持っていて、現代人が見失ってしまった常なるもの」とは、「自分が生きている證拠だけが充満し」「その一つ一つがはつきりとわかつている様な」「充ち足りた時間」であり、ここまで使ったきた言葉に置き換えると「一瞬のきらめき」のことに他ならない。

では、なぜ、鎌倉時代には「なま女房」ですら持っていた「一瞬のきらめき」を切り取る感受性が、現代人に生きる我々からは失われてしまったのか。

それは、「あの世」(天国・地獄・極楽浄土)こそが人間が生きるべき本質的な場所であり「この世」は虚仮に過ぎないという、鎌倉時代にはあまねく認識されていた宗教的コスモロジーが、現代に至って完全に崩壊したからだ。

ではなぜ宗教的コスモロジーが崩壊すると一瞬を切り取る感性まで喪失してしまうのかというと、

宗教的コスモロジーとは、目の前で次々に繰り広げられる瞬間瞬間の事象、大きくいえば森羅万象すべてに、何かの「意味」や何者かの「意思」を見出そうとする意欲の源泉であり、「崩壊」はその枯渇を意味しているからである。

人間は、する意味があると思うから行動し、意思が込められている思うから観察する。意味や意思がない行動や観察が精緻さを欠くのは当然のなりゆきだろう。

現代においても、辛うじてその「一瞬を切り取る感性」を保持している人は、自覚の有る無しは別にして、ほぼ例外なく、かつて先祖が豊かに備えていた宗教的コスモロジーの残滓を、胸のどこかに蔵している。これはおそらく不易的な真実であって、時の流れで移ろう性質のものではないと思う。

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個人的には、これで三十年かけてやっと弁当を食べ終えたような気がしているが、まだこの文章は繰り返し読むだろうと思う。それは中身よりも、盛ってあった器のほうが見事な出来だと、実は思っているからである。