安倍氏の空洞性について

もう、安倍某をどうこういうヒマがあったら、自分の身は自分で守ることを、それぞれが考え始めた方がよいようだ。それこそ「自己責任」で。

自分は必ずしも運命論者ではないが、この時期にこういう首相を頂く仕儀になったのは、ある意味日本国の「宿命」というか、歴史の必然のような要素もあるように感じる。だからといってその事実を受け容れているわけではないのだが。

歴史の必然とはなんだろう。例えば先の戦争で日本人は300万人の命を失い、数千万人が、身体や衣食住で何らかの被害を受けた。時の政府首脳や軍部はとんでもなく愚かな判断をし、誤った道を突き進んだのだ、というのが国家的な共通認識になっている。

しかし、黒船来航から、尊皇攘夷の沸騰、富国強兵のための明治維新、欧米列強に伍しての植民地獲得競争への参加、日清日露戦争韓国併合から満州国設立、日中戦争から対英米戦争突入、そして壊滅的な敗戦という一筋の流れは、それぞれの時代に生きた人々にとっては選択と偶然の連続であったろうが、

今にして想いかえせば、これ以外に、日本にはどういう進路がありえたのか、今の自分にはちょっと想像がつかない。(繰り返しになるが、だからといってその事実を無条件に受け容れているわけではない)

「あんな愚か者たちではない賢い指導者が賢明な選択をしたら、あんなことにはならなかった」という仮定と非難を誰もがしがちではあるが、そんな昔も今も存在したためしがない偉人キャラ人形を頭の中でひねり上げたところで、いったい何の慰めになるのだろうか。

政治家が大衆を先導するのでない。大衆がその深層で望む政治家を選びだし神輿の上に担ぐのだ。この原理は、実は民主主義・共産主義といった政体に関わらない普遍性を持つ。担いでしまったあとにキワモノだと気づいたってもう遅い。ほとぼりがさめるまで、いいようにやられ、なるようになるだけだ。

問題はその後の被害状況や壊滅状態がリカバリーのきく範囲にとどまってくれているか、ということだ。「日本人だったら大丈夫。あんな焼野原からだって復興したんだから」なんて言葉は希望にも慰めにもならない。観ようによっては、戦争より、政治的・経済的敗戦の方がよほど悲惨なこともあり得る。

安倍晋三という個人を、今さらバカだとかマヌケだとか評しても詮無いことだ。彼自身は昔も今もそういう人間であり続けているだけだ。それよりも、彼という政治家は、現代日本人のどのような潜在的・歴史的欲求を具現化した存在なのかを考えてみる方が興趣深いことかもしれない。

ひとりの人間の本性を一言で表現せよ、と課すほど無茶な命令はない。人間の内面は複雑な要素が入りくんでおりその単純化は容易ではないのが普通だが、こと安倍信三氏に至っては例外的にそれがきわめて容易にできる。

安倍晋三氏の心性は、「左翼が嫌い」の一言で尽きている。これ以外に、何も付け足す要素がない。具体的に言うと、彼の政治家としての行動は、左翼的ポリシーのすべて逆を行うことを旨としている。

つまり彼にはアンチテーゼはあっても、テーゼは無いのだ。彼は「右翼」でも「保守」でもない。かつての社会党自民党のやることなすことに全て反対することを実質的党是としていたように、安倍氏は「反左翼」を実質的政治ポリシーにしている。

だから、安倍氏という人間の輪郭は、左翼(これは日本における左翼思想という限定的な意味)を巨細にわたり素描することによって、逆説的に得られるであろう。彼自身は何もない空っけつなのだから。

一流の「右翼」には得体の知れない怪物性が、一流の「保守」には常識性や見識が、一流の「左翼」には高い理想と知性があるが、安倍氏にはそのいずれの特質にも縁がない。彼はこの三者のいずれの仲間にも入れてもらえない。なぜなら、彼は単なる「反左翼」に過ぎないから。